2021年12月13日

大反対の兄夫婦が、伝道された理由 亡くなった父が出てきて… 《北谷先生》



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北谷先生の「死んだらわかるけど、それでは遅い」
今回は、『祝福を受けさせてもらえ』です。


一九九一年十月十六日、父が六十三歳で亡くなりました。

三十一歳のときに交通事故に遭って
瀕死の重傷を負った父は、‛神様’の言葉どおり、
自分のことは自分でできるまでに快復したものの、
顔にひどい傷が残り、
後遺症に苦しみながら生涯を送りました。

そんな父に一度、原理講義をしたことはありましたが、
十分に孝行できないまま、
霊界に送ってしまったことが心残りでした。

そのときは父は祝福を受けていませんでしたから、
昇華式(聖和式、祝福を受けた人を霊界へ送り出す儀式、
一般的には告別式)はできないものの、家族と相談して
「せめて教会葬(家庭連合の教会式の葬儀)で送ろう」
と決めました。


そして、自宅で、朝七時から教会葬を、
その後、仏式で葬儀を執り行ったのです。

葬儀には近所の世話好きな婦人たちが
手伝いに来てくれたのですが、
そこは大阪のおばちゃんですから口も達者で、
「神道の教会で他の宗教(家庭連合)の葬式をするなんて......」
と、 辺り構わず声高に言う人もいました。

ところが、そのおばちゃんの一人が、
葬儀の後で、
「私の祈祷が始まった時に霊界を見た」
と証言したのです。

「たくさんの子供の天女が降りてきて、
お父さんを抱きかかえて舞い上がっていった。
ものすごく高い所に行ったような気がする。
あんなの、初めて見た」と、 興奮して言っていました。


翌一九九二年の八月十三日、父の初盆に、
父が霊界から出てきて母に入りました。

その時の父の言葉が、
「死んだらわかるけど、それでは遅い」でした。

そして、「あの子らの言ってることは本当や。
だから、できるなら祝福を受けさせてもらえ。
天地の違いがある」と兄夫婦に言ったのです。


普通の人はそういう霊的現象を簡単には信じないでしょうが、
兄夫婦はそれまでも日常的に見てきたことでしたから、
信じざるを得ませんでした。

しかも、家庭連合に批判的だった父が
兄夫婦に言ってきたのですから。
これを境に、兄夫婦はがらっと変わりました。

それからわずか二週間足らず後の八月二十五日に、
韓国で行われた三万双の祝福結婚式に参加したのです。



お父さんは、地上で祝福を受けることはなく、
亡くなったとき、「教会葬」で送られた、といいます。
祝福を受けた方たちの「聖和式」ではなかったのです。

それでも、近所のおばさんが
霊的に見て言っていたように
「高い所に行った」、というのです。

神様、真の父母様に連結することが、
どれほど、重要なことであるのか、
そのことを感じざるを得ません。

また、祝福を受けた食口の中には、
事情で、聖和式をすることができず、
「後追い」で聖和式を行うことがありますが、
霊界においては、十分に成立しているのではないでしょうか。

あまりいい表現ではありませんが、
聖和の威力、というのは、本当に凄まじいものだと感じます。
祝福を授けることの大切さを教えていただきました。





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2021年12月12日

歴史に名を残す人になる?! ──そのために必要な3つの要素!! 《阿部先生Web説教》前半



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阿部局長のWeb説教
「歴史に記憶される人物になりましょう!」
要約してお伝えします。


人類歴史は長い歳月をかけて流れてきました。
その時々に、歴史を動かす重要人物が現れて歴史が左右されてきました。

100年足らずの一度しかない人生ですが、
ある人は長い歴史を通して語り継がれる人となり、
ある人はすぐに忘れ去られる人となりました。

私たちの人生はどうでしょうか?
素晴らしい人生と語り継がれる人とは何が違うのでしょうか?

素晴らしい人生と認められるには、共通して三つの要素があります。


第一の要素は、その人が「何を」行った人生なのかという「役割」の要素です。

例えば、「マザーテレサ」、
発明王といわれた「エジソン」
日本史においては「坂本龍馬」

歴史に名を残す人は、素晴らしい役割をもって
発展的な変化に貢献した重要人物だったと言えます。


次に、素晴らしい人生と認められる第二の要素は、
「どれくらい」行ったのかという「程度」の要素です。

その役割を果たすためにどれだけの期間にわたり、
どれだけの努力をなし、
どれだけの結果を収めたかという点で優れているということです。

例えば、「イチロー」選手
「ウサイン・ボルト」選手
全盲の天才ピアニストと呼ばれる「辻井伸行」さん。

独自の個性を磨き「限界に挑戦している人」
「継続している人」
「あきらめず投入している人」は
共通して輝いているし、多くの人に感動を与えます。


次に、素晴らしい人生と認められる第三の要素は、
「いつ」なしたかという「時」の要素です。

物事の成否を決定する要因の中に「タイミング」というものがあります。
課題解決のために大変良い解決策を提示しても
必要とされる時でなければ意味がありません。

ですから、今がどのような時なのかということを知ることが大切でもあります。


日本史における大変化の一つに、「明治維新」があります。

具体的には、西郷隆盛や坂本龍馬など、それぞれ短い人生となりましたが、
彼らの行動が大きく日本の運命を変えたということです。
もし、彼らが江戸時代が始まったばかりの頃に生まれ育ったとしたら、
歴史に名が残らなかったかもしれません。

また、聖書を見ると2000年前のイエス様が生きていらっしゃった時のことが
多く記されています。

重要な使命を持っていた洗礼ヨハネ、
イエス様に愛された12弟子、
イエス様を排斥したパリサイ人、律法学者たちなど。
それぞれが歴史を左右するほどの重要な立場にいました。

一人の能力や才能という観点で見たら、もっと優秀な人が
後の世にいたかもしれませんが、歴史に名は残っていません。

大切なことは、歴史の転換期など、重要な時期に居合わせるという
時の要素があります。


このように歴史を左右する重要人物は、
何をなしたかという「役割の要素」、
どれくらいなしたかという「程度の要素」、
いつなしたかという「時の要素」があります。

私たちの人生はどうでしょうか?
改めて考えてみましょう。


私たちは、一人ひとりの存在や人生の業績はわずかなものだとしても、
実は歴史に見事に名を残す可能性が大きいということを忘れてはいけません。

それは、時の要素に適った歴史上、最も重要な時を生きているからです。
今の時は、歴史上最も大きな「転換期」を迎えています。

人類歴史上初めて「真の父母」を迎えた時です。
文鮮明真のお父様、韓鶴子真のお母様が勝利されたことは、
偉大な歴史的大事件です。

これから千年、万年の時が過ぎてもこの時の事が語り継がれていくことでしょう。

私たちの人生は、真の父母様と共に歩んだという一点において
歴史に残るほどの大きな価値を持ったものになりました。


真の父母様のみ言を紹介いたします。


今日、皆さんが知るべきことは、過去や、現在や、
未来において永遠にたたえられ得る
その名前とは何かということです。
それは、真なる父母、『真の父母』です。

・・・『真の父母』という名前が出てくることによって、
神様の創造理想世界、エデンの園から出発すべきだった
永遠の未来天国が、ここから出発するのです。

その事実は歴史的であり、時代的であり、
未来的なのです。

それゆえ、過去、現在、未来の全体の歴史を
ひっくるめて見るとき、この地上に顕現した
『真の父母』は、宇宙の中心を決定する中心ポイントで
あるということを、皆さんは知るべきです。


(八大教材・教本「天聖經」P227)



このように、真の父母様は宇宙の中心ポイントですが、
私たちはその真の父母様と一つになった歩みなくして価値があるとは言えません。

使命の大きい人は使命を果たせなければ悲惨な結果となります。
誤った方向に行ったらイエス様に従うことができなかった
洗礼ヨハネのようになってしまいます。

要約・編集 文責:ten1ko2



神様に召命された私たちです。
何よりも真の父母様と出会っている、
そのこと自体が奇跡的なことであり、
また、ともに歩んでいる、ということも
さらにさらに奇跡的なことなのです。

そして、「神統一韓国」という一つの目標を掲げて
お母様が歩まれているこの時に、
私たちもともに歩んでいます。

こんなにも足りない者かもしれませんが、
しかし、一挙手一投足、もっともっと
み旨にまい進していかないと、そう思わされます。

三つの要素に関しては、後日お伝えします。





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posted by ten1ko2 at 07:27 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月11日

日本が無敵になるためには何が必要?! *厳選・狭山のみ言 《小山田先生 自叙伝》



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今日の小山田先生の自叙伝は、
狭山(さやま)*でのみ言の続き
「真のお父様が日本に願うのは『心情』 」です。


またお父様は、「アメリカがなぜ祝福されたか」
とのみ言を下さいました。

アメリカの建国精神には、ピューリタン(清教徒)たちが、
自らを犠牲にして神様と子孫のために
命懸けで開拓してきた背景があります。

一九七六年、アメリカの建国200周年に合わせ、
真の父母様は、ヤンキー大会、ワシントン大会を開催されました。
そして、アメリカの底力について語られています。

「神様がアメリカを祝福しました。
 アメリカ人は、命令すれば自主的に行うのです」



そして、「日本もアメリカ以上にするならば、
 神様は日本を愛さざるを得ません。
 アメリカの何倍も苦労しましょう」


と日本に対して語られました。

「聖書が分からないアメリカ人はいません。
 アメリカはキリスト教の思想をもった国です。

 キリスト教の背景のない日本が勝つには、
 真のお父様についていくしかありません。
 お父様を握って放さないとすれば、
 アメリカに勝つことができます」


「お父様が日本に願うのは心情です」

とも言われます。

「外的に強いことよりも、
 内的に温かい心情をもつことが重要です。
 そうすればアメリカ人を使うことができます」


というのです。


さらにお父様は、日本の立場について触れておられます。
当時の日本の危機は主に、共産主義国の
ソ連(ロシア)による脅威で、ソ連の極東艦隊が、
いつ攻めてくるか分からない状況でした。

「ソ連が『船が故障したから、ちょっと接岸させてくれ』
 と言ってきて、日本が幾つかの港を開けた場合には、
 たちまち日本は占拠されてしまいます」


というのです。
今は中国が、 そのことを考えています。
お父様は、

「日本は裸の女と同じです。
 これに魅力を感じない男は男ではありません」


と表現されました。


さらに次の危機として、「青少年の倫理的退廃の問題」を指摘されます。

「神様はこのことを見ながら、
 胸が張り裂けんばかりの
 苦痛と悔しさを感じておられます」


というのです。

「神様の前に親孝行しなければなりません。
 サタンは愛の怨讐です。
 勝利の秘訣は、神様から同情を受けることです。

 お父様は、あまりにも神様を体験した男です。
 
 実践と実績、これが我々の課題です。

 神の国を発見するか、実現するか、
 心情をいかに発見し、体恤するか。
 超民族的世界観をいかに確立するか」

これらが要点だと思います。

小山田秀生 自叙伝
「真の父母様の御跡を慕って」より
第六章 日本の行くべき道とは
「真のお父様が日本に願うのは『心情』 」

*狭山(さやま)とは、おそらく
東村山市にある都立狭山公園だと思われます


日本は、近隣国からすると、
とても魅力的な国だといえるでしょう。。。

キリスト教国家ではありませんが、
ここまで発展してきたのは、
神道を中心とした『日本的宗教』の
伝統が根付いているからだ、
とある先輩が指摘しておられました。

ただ、一番問題なのは、
中心がないことであり、
その中心に神様をお迎えすることで、
完璧な国になっていく、というのです。

真のお父様が語られるように、
「神様の前に親孝行」する心情を持てるように、
その心情を中心として歩む、
私たちになっていきたいと思うのです。



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