史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より、
今回は、『幼少の頃から特別な能力を現わされたお父様』です。
☆
お父様(文鮮明師)は、幼少の頃のお話を多くされます。
特に、数え年で8歳の時のお話をたくさんされます。
お父様は8歳の時、既に人の将来を
見ただけで、すぐにわかったそうです。
お父様が、「あのおじいさんは、
何日かしたら亡くなるような気がする。」
と言うと、間違いなく
お父様が指摘されたその日に亡くなり、
遠くに離れて暮している親戚のおじさんが
農繁期で忙しいにもかかわらず、
「あのおじさん、明日か明後日に来るよ。」
と言えば、間違いなく来られたそうです。
周りの人が「忙しいのに来るものか?」
と言っても、必ず来ると言うのです。
☆
ところで、もっと特別なことが何かと言うと、
村の人や近い親戚で、 お父様がよく知っている人が
結婚すると大人たちが言うと、お父様が
その人たちの未来を見抜かれるそうです。
それで互いに結婚してはいけない人たちには、
「あの人たちは、結婚したら駄目です。」
とおっしゃるそうです。
大人たちが「どうして、だめなんだ?」と尋ねると、
お父様は「二人が結婚したら、不幸なことが
度々起こります。」と教えてあげるそうです。
それでも、「小僧が縁起でもないことを言うのか?」
と言いながら、 お父様の言葉を無視して
結婚してしまうのが常ですが、時間が経つと
お父様のその予言がぴったり当たると言うのです。
そんなことが何度もあったそうです。
それで、結婚しようする人たちを連れて来ては、
「この男はどうだ?
この女はどうだ?」と尋ねてみると言うのです。
お父様が頷けば OK、首を横に振れば結婚できないのです。
☆
定州郡の文氏一門から天才少年、男の巫堂(ムーダン霊媒者)、
予言者が現れたと言う噂が、あちこちの村に広まり始めました。
遠い村の人たちは結婚する相手の写真を持って来ては、
「この女性は私と合うだろうか?」
「この男性と結婚しても大丈夫か?」と聞いて来たそうです。
お父様が静かに写真を置けば OK、
ぽいっと捨てたら駄目なのです。
ある時は、写真が積み上げられるほどだったそうです。
あちこちから人々が写真を持って来たそうです。
あまりにも多いので、お父様は
「今日はやらない! 今日はやってあげたくない!」
と言われながら写真を床に投げ出され、
足でくしゃくしゃと踏んだりもされたと言うことです。
☆
神様は、なぜこのような能力を
お父様にくださったのでしょうか?
私が最近じっくりと考えてみると、
神様のみ旨を成すために、そのような能力を
お父様にくださったと言うことを感じました。
争いもなく、憎しみもなく、本当に神様が願われ、
人間が願う世界平和を成そうとするならば、どうするべきですか?
怨讐(おんしゅう・恨みのある敵 ( かたき ))まで
愛するべきではないですか?
怨讐を愛する最高の方法は、怨讐同士を結婚させることです。
それで最近、お父様が国際結婚をたくさんさせるのです。
特別に韓日家庭の先祖たちを見てみれば、
全て怨讐ではないですか?
ところが、怨讐の間に
子女が生まれるとどうなりますか?
怨讐になりえません。
お父さんも喜び、お母さんも喜び、
子供たちもお互いに愛するからです。
それで私は、「ああ、今後お父様が
世界的に怨讐同士を愛し合うようにさせるには、
怨讐同士を祝福してあげるべきだし、
怨讐同士に祝福してあげるには、
相手を選んであげなければならない、
だから、神様は幼いお父様に
そのような霊的な能力を与えられたのだなあ。」
と悟ったのです。
史吉子/ 著「原理によるみ言の証」
第1章総序論
幼少の頃から特別な能力を現わされたお父様
第1章総序論
幼少の頃から特別な能力を現わされたお父様
☆
真のお父様は、未婚の男女に関しては
相手を選んでくださいました。
いわゆる「マッチング」です。
最初は実体で(候補者を一ヵ所に集めて)
なさっておられましたが、
6500双の時から、
写真でマッチングをされるようになりました。
その能力は、『数え年で8歳』つまりは、
満7歳から備えておられた、というのです。
要するに、一般的に言えば、
お父様は、特別な霊的能力をもつ『霊能者』です。
満7歳ということを考えれば、
特別な修行をされたわけでもないですし、
やはり、神様から授かった『能力』
というほかないですね。
こういう証しからしてみても、
お父様は、メシヤに違いないと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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