家庭カウンセラー内田由喜先生の『生活信仰のすすめ』より
「日々、神様の愛を感じる生活を」
数回に分けて紹介します。
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■「動機の成長」が大切
初めに基本的なことですが、「そもそも信仰生活とは何か」と問われたら、一言、「神様の愛を感じる生活である」と言えます。
それは日々の生活の中で神様の愛を実感し、喜び、感謝しながら生きることであり、さらにその愛を人に伝え、共感する歩みです。言葉で言うのは簡単ですが、そのような信仰生活をするために「動機(情)の成長」ということが重要になります。私たちが行動する際、常に何らかの動機があり、それが出発点になっています。
例えば、おなかが空けば何か食べたくなります。「食べる」という行動の動機は「空腹を満たしたい」との思いにあります。直接的に心を動かす要因(動機)があって初めて行動に移すのです。
動機とは、目に見えず、確認しにくいものですが、行動した結果は目で見て確認できます。最初の出発点となる動機が、とても重要になります。
「木」に例えてみます。木が生い茂るためには「根」がしっかり張っていなければなりません。地中から水分や十分な栄養素を吸収する必要があるからです。同様に信仰生活でも、表面的な行動よりも、根に当たる「心」を中心に、行動に至るまでの動機が重要です。
「動機を成長させる」ことは“いかに深く根を張ることができるか”につながります。そして、動機の成長は人間の心霊の成長にもつながります。信仰生活において“いかに深く神様とつながるか”になります。つまり、個人における信仰生活の確立が重要なのです。
☆
■神中心の生活に転換
その動機をどのように育てていけばよいのでしょうか。
今の時代は、多くの方々が伝道され、信仰生活に導かれるようになりました。だからこそ、動機の成長という内容が大切になってくると思います。それは「み言を聞いて、どのように受け止めるか」ということです。
私たちの多くは、伝道されるまでは自分の考え方や生活スタイルで、いわば自己中心的に生きてきたと思います。
ところがみ言を学ぶことで、「神様を中心とする本質的な世界」に目覚め、それまでの自分中心の考えや生き方から、神中心の生活に転換していくことになります。しかし、各人の課題や置かれている環境もあり、神様を中心とする生活ができにくい実情があると思います。
先輩の食口たちは、共同生活をしながら「ために生きる」実践や、神様に侍る儀式や礼拝を中心として一緒に信仰生活に取り組んできました。今の時代は、教会というよりも、それぞれの家庭を中心にして神様に侍り、信仰生活を営むようになってきています。
『祝福家庭』に連載されたもの
(中和新聞 2020年4月14日 通巻1252号より)
中和新聞セレクト Vol.3
生活信仰のすすめ
第1回 日々、神様の愛を感じる生活を〈前〉
(blessed life)
(中和新聞 2020年4月14日 通巻1252号より)
中和新聞セレクト Vol.3
生活信仰のすすめ
第1回 日々、神様の愛を感じる生活を〈前〉
(blessed life)
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信仰生活の基本は、神様の愛を感じること・・・
ですから、どんな状況におかれたとしても、
それが神様の愛である、と感じることができる
『私』となる必要があることを思わされます。
また、どんなときにも感謝して信仰生活を送るためには、
動機の成長が重要であることも感じます。
信仰を生活化させることは、
ルーティンのようにとても地味なことだと思いますが、
かと言って、マンネリ化してはならないものだと思います。
こういったみ言を通じて、
信仰の原点に帰らさせていただけることが、
とても感謝なことだと感じております。
私たちにとって、日々の生活の中で信仰を育み、天の父母様(神様)の愛を実感しながら心霊的に成長していくことが、とても大切です。本シリーズでは「生活信仰のすすめ」として、信仰の基本的な在り方や実践について考えます。(『祝福家庭』での連載を整理したものです。文責・編集部)
毎週2回(火、金)、さまざまなコンテンツを配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
第3弾は「生活信仰のすすめ」(家庭カウンセラー:内田由喜氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
同コンテンツは『中和新聞』2020年4月から連載中のシリーズです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
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