2022年02月10日

祝福を受けて苦労をするのはどうしてか?! 御旨の心情 《奈田先生》



220210-87moon_web.jpg


奈田先生の「父母と共なる生活」
今回は、『み旨を中心とする心情』です。


(2)み旨を中心とする心情

み旨の中において、み旨を中心とした心情
というのはたくさんあると思います。
その中で、代表的なものを挙げてみましょう。

  @神を中心として万民のために生きる家庭

私たちは、神を中心として万民のために
生きる家庭になるということを、
終始一貫して忘れてはならないと思います。

文先生のみ言の中にもあるように、
み旨の中心はもちろん神なのですが、
もう一つの中心があるのです。
それは万民です。

私たちは、いつも「世界を復帰していくのだ」
という心情圏の中にある家庭ですから、
人々の見本になっていかなければなりません。

そういう心情は、現実の生活に追われていると、
ともすれば忘れがちなので反省することが肝要です。


「統一教会の今後の使命は何かというと、
 世界を一つにつくる。
 一つの統一親族圏をつくることであると考えれば、
 国際結婚はこれは奨励するどころではない。
 ……国際結婚した家庭は特に
 模範的な家庭をつくらなければならない」

(一九七七・二・八)


今後、韓国、日本、アメリカ、ドイツの四か国の家庭が
一緒に住むという計画があると、先生はおっしゃっています。

日本の祝福家庭同士が集まって住むということも、
なかなか難しいのですから、一刻も早く
そのために準備していかなければならないと思います。


  A生きた祭物としての家庭

私たちの家庭は祭物なのですから、いつ何があっても、
ささげ物だということを忘れてはなりません。

かつてイエス様でさえも家庭を持つことができなかったのだ
ということを考えると、本当に申し訳ない
という心情で歩まなければならないのです。


「何十年の努力を重ねても、
 あなたたち夫婦が手を取り合って、
 過去の先祖たちの愛の道の過ちを後悔しつつ、
 深い深い心情圏に立ち入りつつ、
 開拓していかなければなりません。

 涙ながらに天をたたえながら、万民を
 自分の兄弟親族に思える心情をかかえて、
 死しても行かんという思いでもって、
 愛の家庭を天のささげ物として
 生涯を行きたいというのが、
 今からの祝福家庭の行く道です」

(一九七八・九・二二)

 
「皆様が天国の使命を完遂するのにおいて、
 イエス様より劣ってはなりません。

 イエス様は、新婦と共には
 神様に侍ることができなかったのです。

 我々統一教会の群れは、
 夫婦が生きた祭物となって、神様のみ旨を
 地上に受け継ぐ一つの土台となるのです」

(一九七五・一・二六)


文先生は、本当に高い基準で祝福家庭というものを
考えておられることが分かります。

私たちはいつ「イエス様以上の基準」に
なったのだろうか
と思いますが、先生によってイエス様さえも
受けられなかった祝福を受けているのですから、
私たちは「イエス様に劣ってはいけない」
と言われるのです。


家庭的十字架を背負うのでなければ、
神様もその家庭を訪ねていくことができません。

皆さんは、給料をもらってみ旨の道を行くのですか。
神の名の下に、先生の名の下に、白いご飯を
食べさせてもらって喜んでいる
子供たちを見るよりは、私の家庭が
祭物になるほうが天的恵みが大きいのです。

先生は国を助けることができず、
み旨の前にささげることのできない会社に
未練はありません。

そのために、どれほど統一教会が
迫害を受けたか分かりますか。

この民族を救うために一生を犠牲にして、
夜も眠らず献身の道を、国を生かすために
努力していく、そういう食口になってください。


自分のために天のものを
利用する者となってはいけません。


私たちが祈る内容は、せいぜい自分の先祖たちのことぐらいです。

しかし、それを超えて、民族的、国家的、世界的、
歴史的な過ちも全部、祝福家庭にかかっているのだ
という心情圏を通過していかなければなりません。


  B感謝の一念で過ごす


「先生は、愛を征服し、復帰するために来ました。
 そしてそれは神に対する心情の復帰でもあります。
 ですから先生は愛のため、心情のための
 蕩減をしなければならなかったのです。

 愛に勝利し、すべての愛を天のために
 復帰しなければならなかったのです。

 それは、そのために負うべき
 十字架を意味していました。
 それは正に愛の十字架であり、
 愛の十字架こそは最も大いなるものでした」


(一九七七・五・三)


文先生ご自身が、愛の十字架の道を行かれ、
それでもなお感謝してこられました。
私たちはそれを見習っていかなければなりません。


「天国復帰はだれがやるかといえば、
 み旨のために十字架の前に行くとしても、
 感謝することのできる絶対的夫婦、絶対的な信仰、
 絶対的な姿勢、絶対的な心情を主張しえる
 夫婦から、初めて天国の門が開かれてくる」


「家には米を一粒も与えることができず、
 子供にも何も与えることができず、
 一銭のお金も残さずに、
 先生がその道を行ったので、
 皆さんもそのような道を行くことができる
 姿勢を持っていなければなりません。

 祝福を受けてそのように苦労をするというのは、
 世界を代表して、祝福を受けたためです。
 ですから、世界を代表して
 恵みを受けるようになります。

 その恵みは高いところで受けるのではなく、
 悲惨で血を流すような場で、家庭的な十字架上で、
 生命が消えていくその瞬間に
 相続されていくのであります。

 それを皆さんは知らなければなりません」


(一九七八・一〇・二二)


私たちはどのような状況にあっても、
感謝して乗り越えていかねばならないのです。

父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)

三 復帰過程における神の心情の体恤
第四章 父母観(その三)
(2)み旨を中心とする心情


奈田先生のみ言は、1991年に執筆されたものであり、
お父様のみ言も1970年代、80年代のみ言で、
とても古いものです。

だから、求められる天の基準は、
今も同じではあるはずですが、
現実とのギャップを考えると、とても高いと感じます。

「イエス様以上の基準」「世界を代表して」
お父様からそのように言われると
申し訳ないというほかないのです。。。

しかし、神様、父母様は私たちにそのように願いをかけ、
見つめてくださっているに違いありませんので、
より公的な立場で、私の家庭を見つめ、
天願う家庭を目指していきたいと思うのです。






にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:25 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月09日

(証し)無神論から一転、痛哭と懺悔の7日7晩のあとの奇跡 《周藤先生》



220209.jpg


世界家庭に周藤先生の証しが掲載されています。

表題は、
「無神論者の私が神様の懐に抱かれる」

周藤先生が、腎臓を患い
大学を休学し療養していたとき──

生長の家の書籍に触れ、
大きな気づきを得るようになりました。
強烈な神霊体験、奇跡の証しです。


懺悔と痛哭の一週間が過ぎ八日目に与えられた神癒

そして、自分のことを振り返ってみると、
それまでの二十数年間の自己中心的な人生が
次から次に浮かんできて、自分の中に
あまりにも多くの悪と不純なものがあることに気づきました。

私は、愛の減少惑の問題を抱えていました。
また、自分の中にある淫らな思いに苦悩することもあったのです。

『自分はなんと汚れた人間なのだろうか。
 もし、このような多くの醜さに満ちたまま死ぬとすれば、
 自分はなんと惨めな人になってしまうことだろうか』
と思いました。

外的には楽しそうにしながらも、根底には、
どうすることもできない、自分も許せないほど
醜いもの、汚れたものがいっぱいあることに気づきました。

また、それ以上にショッキングだったことは、
自分が今まで、真の意味において
誰をも愛してこなかったことに気づいたことです。

そのことを悟ることにより、自分がいかに
惨めな立場に置かれているかがはっきりと分かり、
孤独は一層深く、苦痛を伴うものとなっていきました。

私は、精神的にも、肉体的にも、
自らの足で立つことができていなかったのです。

自分自身の醜さに耐えられなくなり、
死んでも地獄に行くしかないことが分かりました。

大学で何を学んだかなど、そのようなことは
一切、関係ありません。
自分を許すことができず、また、
解決することもできない自らに直面したのです。


そこで初めて、懺悔という経験をしました。
痛哭したのです。

悔いの涙が頬を伝い、枕に落ちていきました。
七日七晩、私の寝床と枕は涙でぐしょぐしょにぬれていました。
それほど泣いたのです。

自分の醜さをどうしていいか分からず、
『赦してください。これを、どうしたらいいでしょうか』
という思いで懺悔と痛哭の一週間を過ごしました。

その間、私の中の不正なものや不純なものが、
悔い改めの涙によって流されていくような感じがしました。
それまでの人生で、それほどの
平和と清さを感じたことがありませんでした。


そして、八日目(1954年8月2日)は、
ちょうど村のお盆の祭りが行われる、蒸し暑い日で、
私一人が家に残されていました。

この日に、「甘露の法雨」を手にしました。
これは、生長の家の核心の教えを伝えるもので、
前に読んだ本よりも深く、心を大きく揺り動かされました。

その日の夜八時頃、一人で家にいて布団に横になっていました。

そのとき突然、『宇宙をコントロールしている
聖なる何かが存在するに遠いない』
という確信を得たのです。

私は生まれて初めて手を合わせ、祈りました。

するとその次の瞬間、まるで頭の右斜め上から
バケツ一杯の氷水を浴びせられたような体験をしました。

寝床の上にはバケツも洗面もありません。
天からの霊的な清めの水だったのです。
私の罪滅れに対する天からの清めの冷水でした。

続いて、頭の真上からさし込んできた、
純金と白金が一つになったような白金色の光が広がり、
私の全存在を包み込んでしまいました。

次の瞬間、直径二、三センチの真っ赤な火の柱が
脳天を通って私の全存在を貫き通したのです。
これらはわずかな、数秒もない瞬間的な出来事でした。


私は自分がどこにいるのか、今がいつなのか、
何が起こったのかも分からず、正に茫然自失で、
身も心もまひした状態でした。

そのような状態で五分たったのか、十分たったのか分からず、
急に背中がおかしいと感じたので、自然と手を当ててみると、
今まで一年間病んでいた腎臓が右も左もビーっと震えていました。

その瞬間思わず、『神様、神様、神様』
と心で必死に呼んでいたのです。

「神様なんかいないんだ。
 神様なんかいてたまるものか」
とさえ言っていた私が、神様の懐の中に
しっかりと抱き締められている自分を発見したのです。

人間の力でも、医学の力でもどうすることもできない病を
一瞬にして癒してくださった、
超越者である神様の愛を実体験したのです。


翌朝、自分で尿検査をしてみました。
試験管に少し尿を入れて、そこに試薬を入れるのです。
それまでは、たんばく尿が出ていたので、
病気になってから一年間は、いつやってみても真っ白になりました。

ところが、この朝は、試薬を入れても白くならず、
透き通っていたのです。
二日目も、三日目も、四日目も、透き通っていました。
どれほどうれしく、感謝にあふれたことでしょうか。

周藤健
真の父母と共に歩んだ人生(一)
「無神論者の私が神様の懐に抱かれる」
世界家庭2022年12月号


一週間も懺悔するというのは、すごいですね。
それに比例するように、
強烈な奇跡を神様が返してくださいました。

大阪大学理学部に入られた周藤先生。
突然、腎臓の病気を患い、
故郷で療養することになりました。

そんな中で生長の家の証し集を手にし、
さらに創始者谷口雅春氏の
「生命の実相」に感銘を受けました。

(今日は、その後から掲載させていただきました。)

周藤先生は、無神論でしたし、
自分の人生にも疑問を感じていませんでした。

病気によって、限界を感じるようになったことで、
生長の家の証しに触れるのですが、
証しを読んでも、最初はなんの
気づきもなかったといいます。

しかし、懺悔に至るようになって、
究極まで自分を追い詰めた時、
神様が周藤先生を抱かれました。

神様を知るためには、
悔い改めが大切だとは聞きますが、
そのわかりやすい実例ですね。

病気も治ってしまった、というのは、
原理でいうところの「生霊要素」の働きだと思います。
奇跡というのは、実は起こるべくして
起こるのかもしれません。

神様が生きて働いておられることを
感じさせていただきました。

続きます。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

2022年02月08日

霊界では、大統領は優遇されるのか?! 学歴では・・・ 《李相軒先生》



220208.jpg


李相軒先生の『霊界の実相と地上生活』より
今回は、「霊界で見た地上生活」前半です。


貢献が多い地上人は霊界でどのように記録されるか

地上生活とは、人間が霊界に来る前に、
自分の人生をどのように生きたかという、
生活それ自体がこの霊界に記録されていく過程です。

例えば、地上で大統領として貢献をしたとしましょう。
その人は、霊界でどのように記録されるでしょうか。

自分個人のための人生ではなく、国家のために生きたので、
その功績がこの国、霊界に記録されます。

同時に、細々とした物質の不正、淫乱、誤った思想など、
あらゆる記録が、まるで自分の自叙伝のように記録されます。

このような暮らしの姿が、地上で最後に整理されるとき、
霊界のどこに、どのように導かれるのでしょうか?

神様が、無条件に現れて、
「あなたは国の大統領として過ごしたから、
 どうぞこちらにいらっしゃい。御苦労だった」
と言えば、どれほどいいでしょうか。

しかし、とんでもありません。
国の大統領もこの国に入ってくるときは、
警護員の一人もなく来ます。
自分の人生の基準の前に立つようになるのです。


肉身の生命が終わったのち、少なくとも
40日が過ぎてから、完全な霊界人になるのです。

その人は、40日間、地上と霊界を往来しながら、
自分の居る所を定めます。

定めるに際して、神様は介入しません。
先祖たちが協助するにはしますが、
先祖たちも100パーセントは協助できません。

まるで風が吹けば、風のなすままに動いていくように、
自分の居る所は、自分自ら探していくのです。

誰も審判しません。
それぞれ審判の位置が違うのです。

そして自分の居所に行き、落ち着けば、
誰がさせるのでもないのに、
自然に自分の引導者が現れて導くのです。


霊界の級数によって、審判する雰囲気が違います。

国の大統領を務めたとすれば、恵沢がないわけではありません。
しかし、国に大きな貢献をしたことは恵沢の条件になるとしても、
自分の存在価値が善の立場に立てなかったなら、
断固とした処罰を受けるようになります。

それが霊界です。

それゆえ、この国、霊界では、大統領だとか、
あるいは、一番下だというような階級的な差が、
霊的基準を左右するのではありません。

いかに正しく人生を生きたかという道徳的な基準が、
その人の価値を評価する所です。


「霊界では、学力の差による差別待遇はありませんか。
地上では、学力のある人と、学力のない人の
位置が違いますが、霊界ではどうですか。
学力がなくて末端で働く人たちは劣等意識を持ってはいませんか」
と李相軒(イ・サンホン)院長に尋ねると、

「霊界でも、自分の専攻によって、働く分野が違います。
しかし、劣等意識というものは、地上とは違います。

自分自身の人生の基準の価値を知らず、誤って暮らしたことが、
最も恥ずかしさとして現れるのです。
学力水準の差に左右される地上とは全く違います」
と答えられました。

(1997年6月9日)

(光言社刊『霊界の実相と地上生活』より)
第一部 霊界の実相と地上生活
第二章 霊界で見た暮らしと地上生活
四 霊界で見た地上生活

(blessed life)(7)
「霊界で見た地上生活」より


肉体での地上生活だけではなく、
その後の霊界での生活があることを
万民が知ることができたら、
どれほど、地上の生活も変化するでしょうか。

さらには、霊界があると信じていても、
霊界ではみんな天国に行くのではなく、
地上でどのような生活をしたのかによって、
それが霊界での生活に直結していることを知ったなら、
みんな正しい地上生活を送るかしれません。。。

学歴、また大統領などの地位、
そういったものは、霊界では一切評価されません。

そのことを改めて自覚しながら、
愛の人格を持てるように
正しい生き方を心がけていかなければならない、
そのように思うのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


「霊界の実相と地上生活【霊界の様相編】」
 36家庭の李相軒先生(1914〜1997)が
 霊界のさまざまな事実を証しされたメッセージ
(blessed lifeで連載中)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 09:36 | Comment(1) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする