奈田先生の「父母と共なる生活」
今回は、『み旨を中心とする心情』です。
☆
(2)み旨を中心とする心情
み旨の中において、み旨を中心とした心情
というのはたくさんあると思います。
その中で、代表的なものを挙げてみましょう。
@神を中心として万民のために生きる家庭
私たちは、神を中心として万民のために
生きる家庭になるということを、
終始一貫して忘れてはならないと思います。
文先生のみ言の中にもあるように、
み旨の中心はもちろん神なのですが、
もう一つの中心があるのです。
それは万民です。
私たちは、いつも「世界を復帰していくのだ」
という心情圏の中にある家庭ですから、
人々の見本になっていかなければなりません。
そういう心情は、現実の生活に追われていると、
ともすれば忘れがちなので反省することが肝要です。
☆
「統一教会の今後の使命は何かというと、
世界を一つにつくる。
一つの統一親族圏をつくることであると考えれば、
国際結婚はこれは奨励するどころではない。
……国際結婚した家庭は特に
模範的な家庭をつくらなければならない」(一九七七・二・八)
今後、韓国、日本、アメリカ、ドイツの四か国の家庭が
一緒に住むという計画があると、先生はおっしゃっています。
日本の祝福家庭同士が集まって住むということも、
なかなか難しいのですから、一刻も早く
そのために準備していかなければならないと思います。
☆
A生きた祭物としての家庭
私たちの家庭は祭物なのですから、いつ何があっても、
ささげ物だということを忘れてはなりません。
かつてイエス様でさえも家庭を持つことができなかったのだ
ということを考えると、本当に申し訳ない
という心情で歩まなければならないのです。
「何十年の努力を重ねても、
あなたたち夫婦が手を取り合って、
過去の先祖たちの愛の道の過ちを後悔しつつ、
深い深い心情圏に立ち入りつつ、
開拓していかなければなりません。
涙ながらに天をたたえながら、万民を
自分の兄弟親族に思える心情をかかえて、
死しても行かんという思いでもって、
愛の家庭を天のささげ物として
生涯を行きたいというのが、
今からの祝福家庭の行く道です」(一九七八・九・二二)
「皆様が天国の使命を完遂するのにおいて、
イエス様より劣ってはなりません。
イエス様は、新婦と共には
神様に侍ることができなかったのです。
我々統一教会の群れは、
夫婦が生きた祭物となって、神様のみ旨を
地上に受け継ぐ一つの土台となるのです」(一九七五・一・二六)
☆
文先生は、本当に高い基準で祝福家庭というものを
考えておられることが分かります。
私たちはいつ「イエス様以上の基準」に
なったのだろうか
と思いますが、先生によってイエス様さえも
受けられなかった祝福を受けているのですから、
私たちは「イエス様に劣ってはいけない」
と言われるのです。
家庭的十字架を背負うのでなければ、
神様もその家庭を訪ねていくことができません。
皆さんは、給料をもらってみ旨の道を行くのですか。
神の名の下に、先生の名の下に、白いご飯を
食べさせてもらって喜んでいる
子供たちを見るよりは、私の家庭が
祭物になるほうが天的恵みが大きいのです。
先生は国を助けることができず、
み旨の前にささげることのできない会社に
未練はありません。
そのために、どれほど統一教会が
迫害を受けたか分かりますか。
この民族を救うために一生を犠牲にして、
夜も眠らず献身の道を、国を生かすために
努力していく、そういう食口になってください。
自分のために天のものを
利用する者となってはいけません。
私たちが祈る内容は、せいぜい自分の先祖たちのことぐらいです。
しかし、それを超えて、民族的、国家的、世界的、
歴史的な過ちも全部、祝福家庭にかかっているのだ
という心情圏を通過していかなければなりません。
☆
B感謝の一念で過ごす
「先生は、愛を征服し、復帰するために来ました。
そしてそれは神に対する心情の復帰でもあります。
ですから先生は愛のため、心情のための
蕩減をしなければならなかったのです。
愛に勝利し、すべての愛を天のために
復帰しなければならなかったのです。
それは、そのために負うべき
十字架を意味していました。
それは正に愛の十字架であり、
愛の十字架こそは最も大いなるものでした」(一九七七・五・三)
文先生ご自身が、愛の十字架の道を行かれ、
それでもなお感謝してこられました。
私たちはそれを見習っていかなければなりません。
「天国復帰はだれがやるかといえば、
み旨のために十字架の前に行くとしても、
感謝することのできる絶対的夫婦、絶対的な信仰、
絶対的な姿勢、絶対的な心情を主張しえる
夫婦から、初めて天国の門が開かれてくる」
「家には米を一粒も与えることができず、
子供にも何も与えることができず、
一銭のお金も残さずに、
先生がその道を行ったので、
皆さんもそのような道を行くことができる
姿勢を持っていなければなりません。
祝福を受けてそのように苦労をするというのは、
世界を代表して、祝福を受けたためです。
ですから、世界を代表して
恵みを受けるようになります。
その恵みは高いところで受けるのではなく、
悲惨で血を流すような場で、家庭的な十字架上で、
生命が消えていくその瞬間に
相続されていくのであります。
それを皆さんは知らなければなりません」(一九七八・一〇・二二)
私たちはどのような状況にあっても、
感謝して乗り越えていかねばならないのです。
「父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
三 復帰過程における神の心情の体恤
第四章 父母観(その三)
(2)み旨を中心とする心情
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)
三 復帰過程における神の心情の体恤
第四章 父母観(その三)
(2)み旨を中心とする心情
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奈田先生のみ言は、1991年に執筆されたものであり、
お父様のみ言も1970年代、80年代のみ言で、
とても古いものです。
だから、求められる天の基準は、
今も同じではあるはずですが、
現実とのギャップを考えると、とても高いと感じます。
「イエス様以上の基準」「世界を代表して」
お父様からそのように言われると
申し訳ないというほかないのです。。。
しかし、神様、父母様は私たちにそのように願いをかけ、
見つめてくださっているに違いありませんので、
より公的な立場で、私の家庭を見つめ、
天願う家庭を目指していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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