2022年02月02日

無駄に忙しくしていないですか? マリヤとマルタの信仰 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
「永遠に生きる信仰」の1回目、
『マリヤとマルタ』のお話です。


マリヤが泣きながらイエス様に香油を注いでも、
マルタや弟子たちは、マリヤがどういう悲しさをもっているのか
全然知らないで、ただ食事をしていました。

マリヤとマルタの信仰は比較できません。

外的に見れば「食事時間なのに食事もしようとしない、
あんな頭の悪い女はいるか」と大勢が思ったのです。

そしてまた、若い娘が結婚していない先生に対して
泣きながら高価な香油を費やすので、(ユダが)
「あんなことをするから、社会が先生や私たちを
 このように迫害するのだ。

 あの高価な香油を売って貧しい人々に施せば、
 どれほど褒められるか」と
目に見えたものを自分なりに判断したのです。


だからイエス様の立場で聞きたいのは、
「お前はいつからそんな貧しい人のために涙を流して、
 情的に基台をつくってきたのか?
 そういう言葉を、どこの基台の上で発見したのか?」
ということです。

本当に貧しい人に愛着心をもって泣く、
そういう情的な基台の上で話せば認めるのですが、
今までユダは金を愛する心は常にあったけれども、
人間を愛する心はなかったのです。

いわゆるどろぼうです。

どろぼうというのは、実際そのものを盗むというよりも、
情的基台がないのに「ああだこうだ」
と言うのがどろぼうなのです。

自分は汗を流さずに、他人の価値あるものを
自分のものにしようとするのがどろぼうです。

だから、愛着心をもたずに、ただ目に見えたから、
ああだこうだと判断する。

高価な香油を費やすのを見たから、もったいないと思った。
何のために費やしているのかも知らないで、
自分なりに判断したのです。


マリヤは今、先生が死ぬことになったのに、
何がもったいないものがあるかいうのです。

内情を知っている立場では、もったいないものはないというのです。
自分の生命をささげてもいい、もうその場で死にたくなったのです。

香油が問題ではない。
栄誉が問題ではない。
迫害が問題ではない。

もう殺されるのに、今になって迫害を恐れることがあろうか、
命を懸けなくてはならない時が切迫しているというのです。

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
8.永遠に生きる信仰 
マリヤとマルタ


マリヤとマルタ(ベタニヤのマリヤとマルタ)は、
イエス様に侍った女性の中で、
よく比較対象されています。

しっかり者のお姉さんマルタと、姉を手伝わず
み言ばかり聞いている妹、マリヤ。

マルタは外的にとてもイエス様に仕えた人でした。
イエス様や集まった人たちの接待で大忙しで、
誰よりも頑張って働いていました。

かたや、マリヤは上述にあるように、
高価な香油をイエス様のために使いました。

常識的にみると、無駄なことをしていたのかもしれません。
しかし、イエス様の本当の価値を理解していて、
イエス様に心から侍っていったのでした。

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」
イエス様がマルタに向けて言ったみ言です。

私たちは黄金期のこの時、
真の父母様に侍る立場を与えられています。

今この時に精誠を捧げることが
どれほど貴いことかしれません。
そのことを胸に刻みんでいきたいと思います。

マルタのようにただ外的にいくら忙しく歩んでも、
天を思う心情、孝情がなければ、
本当の意味で実績も出ないでしょう。

マリヤのような信仰を求めることを
願われていると感じるのです。

(このベタニヤのマリヤとマルタ(メアリーとマーサ)
お話はまだまだ続きます。
お楽しみに。)



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posted by ten1ko2 at 09:42 | Comment(2) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする