蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」続きです。
☆
「私たちは神様からの本性ではなく、
ほとんど先祖の血で思い話している!」
というと、ちょっと暗くなる話ですが、
(創造)本性というのは、ほとんど使ってないのです。
ほとんど使ってないというのは、ちょっと語弊があるかもしれませんが、
それぐらい本性ってすごいんです、皆さん。
本性が出てきたら、皆さんはびっくりすることでしょう。
自分ってこんなにスゴいのかといって、
三日三晩ご飯も食べれないぐらい
号泣するというのです、自分がすごすぎて。
そしてその感謝を天に捧げることでしょう。
「神様、このように素晴らしい自分をありがとうございます」
と言って栄光在天するその日が、
個性完成の日だということです。
ご飯を食べられないくらい、自分が素晴らし過ぎて
慟哭して泣くというのです、
皆さん、どう思いますか。
神様が与えてくださった本性の素晴らしさというのは、
「犠牲になりたい」と言って、喉から血が出るほど叫んでいる。。。
そのように、良心の基準がそうだといいます。
(現在の自分からは)考えられない自分があるのです。
それ(本性)を使ったら、皆アボニムやオモニムのようになるでしょう。
イエス様のようになるでしょう。
☆
(しかし、本性を発揮していない)ほとんどがこれです、皆さん。
「そこに原理とか正論を乗せても
自分の思いが清算、蕩減されていない限り
蕩減の関係も終わらない!」
教育上の、こういう講義ではいいのですが、
皆様の私生活において、
正しいことを自分の配偶者などに(言うことがあります。)
(例えば)夫婦のケンカではお互い、正論を言うでしょう。
どちらが正しいかで、ケンカします。
でも、自分の血統的な情で、
正しいことを言っても導かれません。
ところが私たちは、『自分の方が正しいので
導かれるべきだ』という思いがあるのです。
それは要求心であって、愛ではありません。
反対です。
ですから、私たちはまず、正しいことを言うという前に
この自分の思いを清算しないとダメなのです。
それなりに、一理あること言いますね、夫婦喧嘩では。
しかし、その思いが失敗しています。
それ(私の思い)で、話したり、行動したりすると、
自分からは、先祖の因縁が出てくるだけなのです。
神様ではない、先祖のものが出てくるということです。
☆
ですから、「蕩減の観点や、神様の願いの観点などと
無関係に湧いてくる私の情や思い、これをどうするか?」と
下のところね、「情」と「思い」というものが入ります。
この「情」と「思い」がわくのは、どうしようもありません。
で、み言を聞くと、『あーこれは堕落性だー、
我慢しないといけない』と。
そして、抑えます。
抑えると、どうなりますか?
やがては爆発するようになっているわけですね(笑)。
生ゴミもずっと出さないと?
夏場とか、ガスで膨らんできます(笑)。
膨張力を持つわけです。
☆
それを清算できない、
自分が変われていない!
人を許せないことで悩んでいるように見えますが、
実際は違います。
み言を聞きながらも、許せていない自分に
落ち込むというのです。
食口の悩みは、そこだけなんですよ。
ですから、み言を聞いた人は、悩みが増えるわけです。
だから、「み言を聞いてそのみ言と一つならないと
ストレスが増えるよ」と、お父様のみ言にもあります。
しかし、こうやって体を従えていくんだと、
うんとこしょ、どっこいしょとやる、
これが信仰だというふうに思って。。。
自分の霊性や、心霊が(どうでしょうか。)
だから、行動は聖人並みなのに、
内面はカインの情だということも多いのです。
ここは少し心配しないといけないのではないでしょうか。
蝶野知徳・精誠篇1
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
「本性ってすごい
自分ってこんなにスゴいのかといって、
三日三晩ご飯も食べれないぐらい
号泣する」
これは、お父様のみ言ではなく、
蝶野部長が感じられた世界だと思います。
蝶野部長は、ご自分の本性を
心から求め求めて、
精誠を尽くしていかれたのでしょう。
私の思いが
神様、父母様と一つになったら、
すなわち本性を中心としたものになれば、
どれだけ素晴らしいことでしょうか。
そのためのみ言の訓読であり、
祈祷であり、み旨の実践であり、
自己牧会プログラムである。。。
そんなことを思わされます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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