いつもお世話になっている李ヨハネ先生*。
ヨハネというのは、クリスチャンネームかと思います。
ヨハネ先生がどのようにして教会に導かれたか、
その証しを紹介したいと思います。
☆
既に流れてしまった水をもってしては、
水車を回すことができません。
神でさえも過去を改革することはできない、
というアリストテレスの言葉は正しいかもしれません。
愚かな者は明日に生きるといいながら、
今日を空しく過ごしてしまいますが、
賢明な者は過去に生きてきました。
未来に対する予見の最上の方法は、
過去を振り返ってみることですので、
(今回)あえて回想のペンを執ることにしました。
☆
私が今日の神の聖業に従事できるようになった理由を知るには、
父母の代までさかのぼらなければなりません。
私が生まれる前から家族は、キリスト教の信仰を持っていました。
はっきりとは分かりませんが、
母は嫁いで来る前から信仰生活をしてきたようです。
平安北道の宜川邑(むら)からあまり離れていない
蓬山市の、ある農家に私は生まれ、
教会は宜川邑の長老教会に通っていました。
世間知らずの子供でしたが、母の手に引かれ
私の信仰は成長していきました。
☆
満州に移住してからも熱心に教会に通い、
奉天で中国人学校に通いましたが、
満州事変で中国の河南省に移りました。
そこでは韓国人の長老教会に通っていましたが、24歳のとき、
支部教会の伝道師を担当するようになったことが、
牧会の始まりとなりました。
教会員は20から30名になっており、
私が直接礼拝を担当し韓国語で説教しました。
しかし、戦争が激しくなり日本の勢力が強まると、
領事館から韓国語での説教を禁止する通達が来ました。
☆
その後すぐに私は、領事館の許諾を受けて
日本に行くことになりました。
神学を勉強するつもりで日本東部神学校に入学し、
一年程この学校へ通いましたが、1943年に
文教部の施策で各神学校が統廃合され、
連合神学校の日本神学校に移りました。
しかし神社参拝をどう思うかという校長の質問を受け、
あまりにも正直に答えたため退学させられるはめとなりました。
このような思想検査で30名の韓国人学生の中で、
唯一私一人だけが退学させられたのでした。
韓国に帰るわけにもいかず、
日本にそのまま滞在し軍需工場へ通うことになりました。
当時の私の年は25歳。
26歳で徴用の対象となるため軍需工場へ入り、
いったん徴用を免れました。
ここで終戦になるまで仕事をし、
日曜日ごとに何名かの気の合う韓国人だけ集まり、
礼拝を行っていました。
☆
1945年終戦と共に、私の信仰にもう一つの激変期が訪れました。
その年の10月に韓国へ帰りました。
信仰を再び持てる喜び、韓国語、韓半島を
再び取り戻した喜びに国中が沸き返っていました。
それもつかの間で、アメリカ軍政が設置され
新しい政治の波が起こると、
教会は再びそわそわとしてきました。
アメリカから救援物資が入ってくると、
教役者たちは物欲に目がくらみ、政治に参加するようになり、
聖職を捨て去ってしまいました。
教会が純粋性を失い世俗と妥協するようになると、
信仰を失った日帝時代の痛みを再び忘れるに至りました。
そうした中でも満州や故郷、あるいは日本で会った教友たちが集まって、
信仰を失わないための努力がなされました。
☆
どう見ても通っている教会がおかしいと考えた私は、
牧師たちが裸になったり、
タバコを吸う夢を見るようになりました。
教会は何か恥ずかしい状況に行きつつあるな、
と言う考えが直感的に胸をかすめていきました。
また現在の教団に「神の火が移ってしまった」という夢示や、
「韓国に主の再臨」という文字が、
号外新聞のように見える夢を見るようになったのです。
漠然と、私が心配しているので、
このように夢示が下りて来るのだと思いながら、
自分なりに信仰をより徹底するよう努力しました。
☆
その後ソウルから何時間か離れたある教会を受け持って、
ソウルに住みながら礼拝を行いました。
この教会とは、南大門教会の長老を通して因縁を持ち、
引導者がいない間だけ担当したのです。
そうしながら南山チョンヘ神学校2学年に編入して
一学期を通いました。
☆
このような中でも神様は直接啓示を通して、
又は信仰のある生徒の証しを通して『時』を教えてくれ、
『主の再臨』を知らせてくれました。
38度線のため平壌の信仰熱度を直接知らなかったのですが、
そこで信仰生活をした熱誠信徒たちから、
平壌がまるで韓国のエルサレムだな
ということを実感することができました。
その人たちから「平壌に恩恵が多い一人の青年がいるが、
家庭で集会をして獄中に入れられた」
という話を聞いたのです。
その青年の言葉を聞いたことのある人たちによると、
彼は他の人が分からないみ旨を知っている方のようであり、
何か非凡な方に間違いないようでした。
☆
文責:ten1ko2
どのようにして導かれたのか、
文章にしようと思った動機からして、
何か、詩人のようですね。
今回はお父様に出会う前までの道のりですが、
本当に真実を求める信仰者だったのですね。
平壌で伝道していた頃のお父様の
噂をきくという、興味深いお話でした。
続きをお楽しみに。
*李ヨハネ先生のお名前について:
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが
韓国での正式なお名前かと思います。
日本では、李(リ)ヨハネ先生ともお呼びしてきました。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン)
韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく
韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、シリーズとなった
《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》で紹介するに当たり、
親しみを込めて
李ヨハネ先生とお呼びしています。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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