2022年03月28日

最終回 私たちは、神と霊界に守られている! 《北谷先生*死んだらわかるけど、それでは遅い》



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北谷真雄先生の
「死んだらわかるけど、それでは遅い」
とうとう最終回です。

真の愛を実践する者に

これまで私の体験したことを振り返ってみると、
いつも霊界に導かれてきた、守られてきたことを実感します。

母親を通して、亡くなった父親が
「家庭連合の祝福を受けなさい」と言ってくれましたし、
先祖が私たちを証してくれました。
霊界の働き、協助をいつも感じます。

一つの家庭に信仰が根づくためには、
最初に信仰の道に入った人が重要であるということを痛感します。

その人が立てた精誠によって、家族が生かされるのです。
私の家庭の場合は、母でした。

母は、夜八時から夜中の一時、二時まで、毎日、
信者さんの悩みを解決するためにお加持をしてきました。
自分の時間など一切ありませんでした。
それをもう五十年もしているのです。

これは天が覚える精誠だったと思います。
そして、「蕩減」という面では、父です。

蕩減というのは、先祖の罪を償うために、
苦労や苦難など感謝できないことを感謝することです。
父は交通事故に遭い、奇跡的に生還したものの、
その後遺症に生涯苦しみました。

先祖の罪は地上で犯したことですから、地上で誰かが、
その何分の一かでも償わなければならないというのが原則です。
先祖の犯した罪を地上で清算するために、
父は家系を代表してすべてを受けていってくれたと思うのです。

また、父の交通事故は、母にとっても大変なことだったでしょう。
でも、母はそれに対して不平や愚痴をこぼすことなく、
むしろそれを機会に、神様への恩返しのためにと、
人々に尽くしていったのです。

この父と母のおかげで、わが家では、
まず姉が家庭連合に出合い、その七年後に私が導かれました。
そして母、兄夫婦というように導かれ、
家族みんなが祝福を受けることができたのです。

さらには、家族だけでなく、霊界の先祖も祝福を受け、
高い所に引き上げられているのです。
本当に感謝します。


私たちの周りの環境圏には様々なことがあります。
時には、どうしてこんなことが起きるのか、
などと思わざるを得ないことがあるかもしれません。

しかし、そういうときにこそ、
むしろ感謝していくべきなのです。

家庭連合では、怨讐をも愛する
「真の愛」を実践することを教えています。

愛せない者を愛する、許しがたい者を許す、
自らを捧げて愛していく――。

神様がそのような方であり、真の父母様がそのような方なのです。

私たちが真の愛を実践するとき、神様の守りと導きがあり、
霊界も惜しみなく協助してくれます。
神様が共にあり、先祖が共にあることを
忘れないでいただきたいと思います。


光言社刊 北谷真雄 / 著
「死んだらわかるけど、それでは遅い」より


お父さんの事故をきっかけに、
お母さんの霊眼が開かれ、
北谷先生も幼少時より、
霊界からの訓練を受けてきたという
本当に稀有な家庭だと思います。

霊界が見えないからわからないだけで、
私たちも、日々霊的に守られています。
また、大なり小なり、
困難なことが起こったりします。

それを家系的な蕩減だと思って、
感謝していくことを通じて、
先祖の罪が精算されていくといいます。

また、気づきなどの「悟り」にも
霊的な協助が大きいと思います。

私たちが普段当たり前に過ごしていたことにも、
さまざまに、霊界の働きがあったことを
北谷先生の証しを通して知ることができました。

心から感謝いたします。
ありがとうございました。




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2022年03月27日

生きているうちに気づきたい、当たり前のありがたさ! 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム、
質問のお便りと、それに対する
事務局からの回答です。

「当たり前のことに感謝するとは?」


自己牧会プログラムでは、
「目の前にある当たり前のことに気付き、
感謝しましょう」と教えています。

そうは思っても、感謝できないことが多過ぎて、難しいです。
具体的にどうしたらいいのか、教えてください。

(女性 50代)

私たちは「当たり前のこと」に囲まれて生きています。

例えば、帰る家がある、
夫(妻)が生きている、家族がいる、
食べる物がある……。
全て当たり前のことかもしれません。

でもそれがどれほどありがたいことか、
夫(妻)が元気だったら、親が元気だったら、
子供が元気だったら、意外に気が付かないものです。

いなくなってみて初めて、
「いてくれるだけでありがたかったんだ」
と気付くケースが多いのです。

生きているうちに気付いてください。
結婚してくれたこと、そばにいてくれること、
ご飯を作ってくれること、働いてくれること……。
 
いくら感謝の言葉を語っても足りないくらいです。

でも、感謝するにも訓練が必要です。
人生は訓練の連続なのです。

家を出る時に、「これが最後かもしれない」
という思いを込め、相手の目を見て
「行ってくるよ」と言ってみてください。

家に帰ってきたら6000年ぶりに出会えたように
感動し、ハグしてみてください。
そうしないともったいないではありませんか!
 
これは大げさなことではなく、本当のことなのです。
今ここにあることに感動し、感謝しなければ、
天国は一体どこにあるのでしょうか?

天国を感じながら、
天国創建のために歩んでいきましょう。

当たり前のようなこと、
生きていることそのものに、
無上の感謝を表現し、伝えてください。

「亡くなってみて気付いた」では遅いのです。
今いる家族に感謝して、家族を愛し、喜ばせてください。

目を見て感謝を伝えた時に、夫(妻)の目の奥から
喜びの心情が伝わってくると思います。
そのときに心がつながります。

これを毎日毎日やります。
やり続けるのです。
そういう生活を送っていきましょう。

☆自己牧会プログラム事務局☆
【メールアドレス】
wakuwaku150830@gmail.com
【ウェブサイト】
https://ワクワクセミナー.com/

私の心の中にいる神様 114
「お便り&コメント」シリーズQ
当たり前のことに感謝するとは?
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=14644
(blessed lifeより)


当たり前のことが感謝である。。。
これは、様々なところで教えられるものですが、
常に肝に銘じることが大事なのだ、と思います。

今回の投稿を通しても、
改めて気づかせていただきました。

ロシアのウクライナ侵攻により、
ウクライナの人たちは、憂き目にあっています。

今日は春の陽気で、桜の開花がさらに進むそうです。
近くに流れる江戸川の河川敷でも、
菜の花が満開でした。。。

当たり前のような日常を感謝せずして、
困難な状況におかれている人たちに
申し訳もたたない、と思うのです。




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2022年03月26日

マルタ的見方をする人は、多い 両親にみ言を伝えるときは、洗礼ヨハネを立てるべし 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言より、
マルタとマリヤを題材とした話の
3回目です。


マルタの見方


私たちは、人を習慣的に取り扱うことが多いのです。

だから、私たちはよく知っている人、
小学校の時からよく知っている人には、
なかなかみ言を伝えにくいのです。

なぜかというと、小学校当時と同じと思って、
「おい、お前、今どういう意見をもって、
どういう位置で、価値をもったのか?」と言うからです。

歳は同じだけれども、今まで会わなかった期間、
統一教会に来て特修を出て、伝道を三年くらい
したあとに会った時には、その人は子供の時は知っていたけれども
この三年間の私たちは知らなかったのです。

ですから、(その人が)謙遜になって、
「どんな内容をもったのだろう、
どんな価値をもったのだろう」という思いで尊敬すれば、
私たちはその友達に昔の因縁を土台として
自分の秘密が話せるようになるのです。

それなのに、小学校時代に遊んだ者と決定して
扱うものだから、言おうとしても言えない。

言っても、「でっかいことを言うな、
いつそんな哲学者になったのか。
世界的に人類を救う? 
でっかいこと言いやがって」と、
かえって冗談話になってしまう。


だから皆さんも、み言を悟ったあとに、
父母のところへ行ってはいけないのです。

なぜなら、み言によって神様と因縁を結んで、
神にとって貴重な自分だということを信仰して帰ったのに、
自分の価値を知らない人は、以前と同様に
自分の産んだ者として、無価値に取り扱うからです。

入信したあとには、以前知っていた者と会っても、
かみ合わないのです。
だから会わない。

ではだれを通じて会うか? 
必ず中間の人を通じて会うのです。


お父さんお母さんには、自分が会わずに
自分の友達を通じて話すのです。
両親の知らない、自分の親しい友達に
家に行ってもらうのです。

その人が何回も行って、あなたの息子であるけれど
私は先生として侍るんだという心情でもって、
「あの先生、私たちの教会長……」と侍れば、
両親は、今現れた青年が自分の息子を先生と
言って侍ってきたので、
自分がその人の前で「お前!」と言えないのです。

「なぜ息子のことを先生とあなたたちは言っているのか」。

「ええ、立派な人で、兄弟(教会員たち)に尊敬されているし、
こういう内容をもっている」。

「ああ、そうですか」と、友達を通じて
自分の息子がああいう内容をもっている、
社会的信用をもっていると思うのです。

直接に行けば、外的に血統的に見るから
無視されてしまう。
霊的に相当損をしてしまうのです。


マルタは目に見えるもので判断したのです。

ハム(ノアの息子)もお父さん(ノア)の裸になった体を見て、
その原因を知ろうとしないで、
ただ外的に見たから恥ずかしくなったのです。

それも同じ考え方です。
今まで尊敬していたのなら、
酒に酔ったお父さんを見た時も、
尊敬しながらその理由を知ろうとしたなら、
ハムは失敗しなかったのです。

「なぜ今まで飲んだことのないお父さんが飲んだのだろう。
今までのお父さんと、全然違ったきょうの
この結果が現れたのはどういうわけだろう。

神様から何か啓示を受けてなのか、私たちに原因があるのか、
お父さん自体が酒が好きになってそうなったのか。
これはどういうわけなのだろう」。

こういうふうに分かろうとすれば、失敗しないのです。

8.永遠に生きる信仰
「マルタの見方」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


人は、外見や過去に出会った人として、
判断してはいけない、ということですね。

そういう意味でも、「私」を証ししてくれる、
信仰の子女を立てることが
どれだけ重要であるか、と感じます。

今、真のお母様に侍る義人たちも
どんどんと現れてきています。

家庭連合を「統一教会時代のままである」
そのように見つめる人たちもいます。

時代が変わっていることを知ってほしいし、
過去のままで見つめて欲しくないと思います。

また、「私自身」も本当の意味で、変わった、といえるように、
義人を立てる歩みをしていかなければ、と思うのです。



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