蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」続きです。
☆
私の責任と復帰原理
私が体験すること
「私の責任と復帰原理」私が体験すること
「私が体験するということ」は
どういうことなのかということですね。
実は「その思いが湧く人がそれを蕩減すべき人」なのです。
わかりますか?
(蕩減すべき人は)思いが湧いた人なんですよ。
「だから感ずるようになっている!」んです。
例えば、『あの人、ちゃんと身だしなみした方がいいのに
あの人、いつもどうしてかなあ』と思うとしたら、
これが、「私の蕩減」だと思ったらいいですよ。
人の服装にいちいち一つ一つ引っかかる人、
という蕩減条件があるのです。
こういう普段の積み重ねが
摂理の時、出てきます。
いざという時に出てくるわけです。
皆さん、普段です。
普段、普段が重要です。
だから、「感ずる」んですよ。
その「蕩減情報」がない人は、人の服装とか全然気にならないです。
人の服装は気にならないけど、化粧が気になる人もいます。
自分のは気にしないけど、人のを気にする場合もあります。
☆
要するに、「自分が感ずる」ということが、
これが偶然ではないのです。
そして感ずることによって、私たちは普段どうしますか?
相手の性質に対して、とやかく思う。
そして、相手の性質に悩みます。
皆さん、自分の悩みを、ノートに書いてみてください。
ほとんどが、相手の人の性質に悩んでいるでしょう。
でも本当の、自分の良心はどうでしょうか?
自分の本心は、「私が変われない」
ということが本当の悩みなのです。
そうすると、軸が合ってくる、
神様と軸が合ってくるのです。
☆
私たちは、人を見て、環境を見て悩む癖がついています。
だから、もともと中心人物に立つ気はないんです。
『もう、あの人がああなったら、
もう、内の主人もこうなったら、私は違うのに』
と、環境に対して悩んでいるのです。
だから、ちょっと極端に言えば、
原理軌道に乗ってないということです。
しかし、証しが出るときとか、
心情体験、神体験をする時というのは全く違います。
人の性質に悩むのではなくて、
その軸を自分に合わせた時に役事があるんです。
それを今日も少し話します。
☆
(パワーポイントを指して)
例えば、これは少し高度ですが、
引きこもりの息子さんがいる、実話です。
ここに出てくるの全部実話です。
引きこもりの息子さんが
やっとアルバイトぐらいできるようになり、
(これから)外に出られるかなと思ったときに、
その人のご主人が息子さんに
「お前は、バイトしかできねえのか」
というように、暴言を吐いたのです。
妻としたら、やっと息子が立ち上がった、
バイトを始めた、外に出ていける第一歩が、
ここまで来るのに半年、1年かかった、と。
だから、妻にとってみたら、
もう一生懸命愛して頑張ってる最中に、
夫が全部台無しにしたという話です。
こういう話だけ聞くと、
このご主人が悪いように思うでしょう。
ところが、これに頭を抱えて
悩んでいるのは、妻です。
この妻がなんて思うかというと、
『なんでこの人はこういうことを言うのか』と
『なぜこの人はこうなのか!』
つまり、自分の夫に悩んでいるのです。
そして『何度言っても分からない人!』とかですね
あるいはこの夫は『一体何を考えているのか!』と
『あなただってみ言聞いてるでしょ』
と、み言を聞いてたら、
なおさら裁くというのです。
☆
ですが、皆さん、自分の配偶者は、
み言を聞いていないと思わないとダメなんですよ。
聞いていると思うと、『あんたも知ってるでしょう』と
要求心が出てきて、自分が原理軌道から外れるのです。
『み言を聞いているのは、世界で自分だけだ』
と思わないといけないんです。
そうすると、自分に原理を適用します。
しかし私たちの失敗、また、宗教の失敗がそうです。
相手にみ言を要求して、
「神を信じない者はダメだ」と言って線を引くんですね。
「イエス様を信じない者は救いから漏れる」
と言って線を引いてきた、これが宗教の失敗でしょう。
私の責任として感じた宗教がないわけです。
本当は高等宗教はそうだったのですが、
だんだんか変質してきてしまいました。
私たちも、原理を人に適用して裁いている。
実は「原理は自分にだけ適用すべきものです」。
自分の配偶者や子どもや親が、み言を聞いていても
聞いていないものとして、私にだけ原理を適用する。
「ために生きる」とか(のみ言を)。
そういうことですよ。
そしたら、成長はまたそこからですが、
霊的には原理軌道に乗るのです。
蝶野知徳・精誠篇1
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)
原理は私に対して適用される・・・
改めてはっきり自覚しなければなりませんね。
先日、妻とちょっとした諍いごとがありました。
体調が悪い妻が、いろんなことを言ってきたので、
「〇〇ができていないからだよ」と呟いたら、
それが裁かれているように聞こえたらしく、
「ただ聞いてほしかっただけなのに・・・」
と言われてしまいました。
人を愛する、というのは、
本当に父母の心情で見つめていかないといけないな、
と、感じさせられました。
また、み言を知っている、知らない、
食口である、食口ではない、
そういう観点で人を見つめることも、
天の願いではないと思います。
環境や人に影響されることなく、
どこまでも天を見つめる私に
なりたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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