2022年03月01日

環境や人がどうだと悩むのは、原理軌道からズレている?! 《蝶野部長*精誠篇》G



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」続きです。

私の責任と復帰原理
私が体験すること
「私の責任と復帰原理」
「私が体験するということ」は
どういうことなのかということですね。

実は「その思いが湧く人がそれを蕩減すべき人」なのです。
わかりますか?
(蕩減すべき人は)思いが湧いた人なんですよ。
「だから感ずるようになっている!」んです。

例えば、『あの人、ちゃんと身だしなみした方がいいのに
あの人、いつもどうしてかなあ』と思うとしたら、
これが、「私の蕩減」だと思ったらいいですよ。

人の服装にいちいち一つ一つ引っかかる人、
という蕩減条件があるのです。

こういう普段の積み重ねが
摂理の時、出てきます。
いざという時に出てくるわけです。

皆さん、普段です。
普段、普段が重要です。

だから、「感ずる」んですよ。

その「蕩減情報」がない人は、人の服装とか全然気にならないです。
人の服装は気にならないけど、化粧が気になる人もいます。
自分のは気にしないけど、人のを気にする場合もあります。


要するに、「自分が感ずる」ということが、
これが偶然ではないのです。

そして感ずることによって、私たちは普段どうしますか?
相手の性質に対して、とやかく思う。
そして、相手の性質に悩みます。

皆さん、自分の悩みを、ノートに書いてみてください。
ほとんどが、相手の人の性質に悩んでいるでしょう。

でも本当の、自分の良心はどうでしょうか?
自分の本心は、「私が変われない」
ということが本当の悩みなのです。


そうすると、軸が合ってくる、
神様と軸が合ってくるのです。


私たちは、人を見て、環境を見て悩む癖がついています。
だから、もともと中心人物に立つ気はないんです。

『もう、あの人がああなったら、
もう、内の主人もこうなったら、私は違うのに』
と、環境に対して悩んでいるのです。

だから、ちょっと極端に言えば、
原理軌道に乗ってないということです。

しかし、証しが出るときとか、
心情体験、神体験をする時というのは全く違います。

人の性質に悩むのではなくて、
その軸を自分に合わせた時に役事があるんです。

それを今日も少し話します。


(パワーポイントを指して)
例えば、これは少し高度ですが、
引きこもりの息子さんがいる、実話です。
ここに出てくるの全部実話です。

引きこもりの息子さんが
やっとアルバイトぐらいできるようになり、
(これから)外に出られるかなと思ったときに、
その人のご主人が息子さんに
「お前は、バイトしかできねえのか」
というように、暴言を吐いたのです。

妻としたら、やっと息子が立ち上がった、
バイトを始めた、外に出ていける第一歩が、
ここまで来るのに半年、1年かかった、と。

だから、妻にとってみたら、
もう一生懸命愛して頑張ってる最中に、
夫が全部台無しにしたという話です。

こういう話だけ聞くと、
このご主人が悪いように思うでしょう。
ところが、これに頭を抱えて
悩んでいるのは、妻です。

この妻がなんて思うかというと、
『なんでこの人はこういうことを言うのか』と
『なぜこの人はこうなのか!』
つまり、自分の夫に悩んでいるのです。

そして『何度言っても分からない人!』とかですね
あるいはこの夫は『一体何を考えているのか!』と

『あなただってみ言聞いてるでしょ』
と、み言を聞いてたら、
なおさら裁くというのです。


ですが、皆さん、自分の配偶者は、
み言を聞いていないと思わないとダメなんですよ。

聞いていると思うと、『あんたも知ってるでしょう』と
要求心が出てきて、自分が原理軌道から外れるのです。

『み言を聞いているのは、世界で自分だけだ』
と思わないといけないんです。

そうすると、自分に原理を適用します。

しかし私たちの失敗、また、宗教の失敗がそうです。
相手にみ言を要求して、
「神を信じない者はダメだ」と言って線を引くんですね。

「イエス様を信じない者は救いから漏れる」
と言って線を引いてきた、これが宗教の失敗でしょう。
私の責任として感じた宗教がないわけです。

本当は高等宗教はそうだったのですが、
だんだんか変質してきてしまいました。

私たちも、原理を人に適用して裁いている。
実は「原理は自分にだけ適用すべきものです」。

自分の配偶者や子どもや親が、み言を聞いていても
聞いていないものとして、私にだけ原理を適用する。
「ために生きる」とか(のみ言を)。
そういうことですよ。

そしたら、成長はまたそこからですが、
霊的には原理軌道に乗るのです。

蝶野知徳・精誠篇1 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
このみ言は、2018年に蝶野部長が
広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られたものです。
(文責:ten1ko2)


原理は私に対して適用される・・・
改めてはっきり自覚しなければなりませんね。

先日、妻とちょっとした諍いごとがありました。
体調が悪い妻が、いろんなことを言ってきたので、
「〇〇ができていないからだよ」と呟いたら、
それが裁かれているように聞こえたらしく、
「ただ聞いてほしかっただけなのに・・・」
と言われてしまいました。

人を愛する、というのは、
本当に父母の心情で見つめていかないといけないな、
と、感じさせられました。

また、み言を知っている、知らない、
食口である、食口ではない、
そういう観点で人を見つめることも、
天の願いではないと思います。

環境や人に影響されることなく、
どこまでも天を見つめる私に
なりたいと思うのです。



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posted by ten1ko2 at 09:50 | Comment(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする