2022年03月06日

ファーザーズ・ロックの伝説 釣りは天の摂理のための条件 《小山田先生自叙伝》



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小山田先生の自叙伝より
お父様からの釣りの訓練のエピソードの続きです。


統一神学校での訓練

ベリータウンの三月はまだ寒い時期です。
北方のカナダから雪解け水が下ってくるので、
川の水は冷たいのですが、そこに入って魚を捕ります。

寒さに震えながらも首まで水に入り、
網で魚を囲みながら捕まえます。
川から上がると、 皆で焚き火を囲んで暖を取るのです。
正に特訓と言えます。

それで終わりではありません。
次は湖に入ります。
水が引くと逃げ遅れた鯉を手で捕まえるのです。

鯉は正面から捕まえようとすると逃げるので、
後方から口に手を突っ込んで捕まえます。
鯉には歯がないので、それができるのです。
私もそうやって六匹ほど、つかみ取りをしました。

統一神学校の一角、ハドソン川の岸辺に
「ファーザーズ・ロック(お父様の岩)」と呼ばれる岩があります。

お父様は、ときどきその岩に座って瞑想をされるかのように、
じっと川面を見詰めながら釣りをされました。

ロングアイランドでの海釣り

次に真の父母様は、ニューヨークの東部海岸、
ロングアイランドに行かれ、海釣りを始められました。

そこで最初に挑戦されたのがヒラメ釣りです。
ヒラメは釣り師の間では、
道端で500円玉を拾ったときのように
行動する、と言います。

俗な話ですが、人が道端で
500円玉を見つけると、ぱっと足で押さえ、
周りに人がいないことを確認してから、それを拾うというのです。

同じようにヒラメも、餌を見つけると、さっと餌の上に乗っかり、
周りを見渡してから、ゆっくりと食べるという習性があるのです。

ヒラメを釣る際、「あたり」があっても、
すぐに竿を引いてはいけません。
ヒラメが餌を飲み込むタイミングに合わせて
竿を上げないと釣れません。


次に狙ったのが、トローリングによる
スモールツナ(一、二年物の小さなマグロ)です。

針に餌(冷凍魚)を付け、魚が掛かると強く引っ張られます。
それをお父様が引き上げられるのです。

魚が釣れると、針から外すのは私の役目です。
私がもたもたしていると、お父様から
「何やってるんだ」と怒鳴られます。

針を外すとき、私の体中に魚の血が付くのですが、
そんなことは気にしていられません。
とにかく必死の作業です。


お父様にとって、それは天の摂理のための条件なのだと思います。
当時、アメリカでの重要な摂理に取り組んでおられたからです。

ニューヨークでのマディソン・スクエア・ガーデン大会(1974年9月18日)
ヤンキー・スタジアム大会(76年6月1日)
ワシントン大会(同年9月18日)の成功のために
精誠を尽くされていました。
それが、お父様のやり方です。

また、ウォーターゲート事件で窮地に追い込まれていた
ニクソン大統領(当時)を支援する際も、
お父様は釣りを通して精誠を尽くされました。


お父様は次のようにおっしゃっています。


「私たちが海に出て釣りをするのは、
 世の中を釣るということです。
 精誠を尽くすのです。

 皆さんも海を愛さなければなりません。
 精神を集中するには、釣りが一番早いのです。

 昔、グロスターで『ニューホープ』に乗って
 ワシントン大会成功のために
 精誠を尽くしたことが忘れられません。

 『ニューホープ』の二階に座り、21日間、
 釣りをしても魚が一匹もかからなかったのですが、
 それでも心は変わりませんでした。
 みな深刻でした。

 そのようにしていたところ、
 神様が助けてくださり、奇跡が起きたのです」

(『真の父母経』十・二三・3)


真の父母様が釣りをされるのは、
釣り自体のためではなく、
神様の摂理を懸けて最高の精誠を捧げるためなのです。

小山田秀生 自叙伝
「真の父母様の御跡を慕って」より
第十章 人類の食糧問題を解決する海洋摂理
「統一神学校での訓練」
「ロングアイランドでの海釣り」


真のお父様の一挙手一投足は、
すべて神様のみ旨のためである、
と感じさせられます。

特に釣りの精誠は、
精神を集中させる、という点においては、
本当の精誠であると感じます。

21日間魚が一匹も釣れないのに、
釣りを続けられる、ということも
諦めないで、信じ続けていく、という
信仰の極致なのだと思います。

お父様の釣りは、修行そのものです。
何か物事をなすにおいても、
お父様の精神を相続するつもりで、
成していきたい、と思わされました。


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