小山田先生の自叙伝より
お父様からの釣りの訓練のエピソードの続きです。
☆
統一神学校での訓練
ベリータウンの三月はまだ寒い時期です。
北方のカナダから雪解け水が下ってくるので、
川の水は冷たいのですが、そこに入って魚を捕ります。
寒さに震えながらも首まで水に入り、
網で魚を囲みながら捕まえます。
川から上がると、 皆で焚き火を囲んで暖を取るのです。
正に特訓と言えます。
それで終わりではありません。
次は湖に入ります。
水が引くと逃げ遅れた鯉を手で捕まえるのです。
鯉は正面から捕まえようとすると逃げるので、
後方から口に手を突っ込んで捕まえます。
鯉には歯がないので、それができるのです。
私もそうやって六匹ほど、つかみ取りをしました。
統一神学校の一角、ハドソン川の岸辺に
「ファーザーズ・ロック(お父様の岩)」と呼ばれる岩があります。
お父様は、ときどきその岩に座って瞑想をされるかのように、
じっと川面を見詰めながら釣りをされました。
☆
ロングアイランドでの海釣り
次に真の父母様は、ニューヨークの東部海岸、
ロングアイランドに行かれ、海釣りを始められました。
そこで最初に挑戦されたのがヒラメ釣りです。
ヒラメは釣り師の間では、
道端で500円玉を拾ったときのように
行動する、と言います。
俗な話ですが、人が道端で
500円玉を見つけると、ぱっと足で押さえ、
周りに人がいないことを確認してから、それを拾うというのです。
同じようにヒラメも、餌を見つけると、さっと餌の上に乗っかり、
周りを見渡してから、ゆっくりと食べるという習性があるのです。
ヒラメを釣る際、「あたり」があっても、
すぐに竿を引いてはいけません。
ヒラメが餌を飲み込むタイミングに合わせて
竿を上げないと釣れません。
☆
次に狙ったのが、トローリングによる
スモールツナ(一、二年物の小さなマグロ)です。
針に餌(冷凍魚)を付け、魚が掛かると強く引っ張られます。
それをお父様が引き上げられるのです。
魚が釣れると、針から外すのは私の役目です。
私がもたもたしていると、お父様から
「何やってるんだ」と怒鳴られます。
針を外すとき、私の体中に魚の血が付くのですが、
そんなことは気にしていられません。
とにかく必死の作業です。
☆
お父様にとって、それは天の摂理のための条件なのだと思います。
当時、アメリカでの重要な摂理に取り組んでおられたからです。
ニューヨークでのマディソン・スクエア・ガーデン大会(1974年9月18日)や
ヤンキー・スタジアム大会(76年6月1日)、
ワシントン大会(同年9月18日)の成功のために
精誠を尽くされていました。
それが、お父様のやり方です。
また、ウォーターゲート事件で窮地に追い込まれていた
ニクソン大統領(当時)を支援する際も、
お父様は釣りを通して精誠を尽くされました。
☆
お父様は次のようにおっしゃっています。
「私たちが海に出て釣りをするのは、
世の中を釣るということです。
精誠を尽くすのです。
皆さんも海を愛さなければなりません。
精神を集中するには、釣りが一番早いのです。
昔、グロスターで『ニューホープ』に乗って
ワシントン大会成功のために
精誠を尽くしたことが忘れられません。
『ニューホープ』の二階に座り、21日間、
釣りをしても魚が一匹もかからなかったのですが、
それでも心は変わりませんでした。
みな深刻でした。
そのようにしていたところ、
神様が助けてくださり、奇跡が起きたのです」(『真の父母経』十・二三・3)
真の父母様が釣りをされるのは、
釣り自体のためではなく、
神様の摂理を懸けて最高の精誠を捧げるためなのです。
小山田秀生 自叙伝
「真の父母様の御跡を慕って」より
第十章 人類の食糧問題を解決する海洋摂理
「統一神学校での訓練」
「ロングアイランドでの海釣り」
「真の父母様の御跡を慕って」より
第十章 人類の食糧問題を解決する海洋摂理
「統一神学校での訓練」
「ロングアイランドでの海釣り」
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真のお父様の一挙手一投足は、
すべて神様のみ旨のためである、
と感じさせられます。
特に釣りの精誠は、
精神を集中させる、という点においては、
本当の精誠であると感じます。
21日間魚が一匹も釣れないのに、
釣りを続けられる、ということも
諦めないで、信じ続けていく、という
信仰の極致なのだと思います。
お父様の釣りは、修行そのものです。
何か物事をなすにおいても、
お父様の精神を相続するつもりで、
成していきたい、と思わされました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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