無神論の私に強烈な気づきを与えた、不思議な体験
周藤健先生の自叙伝より
『おまえは誰かを、自分の生命以上に
愛したことがあるのか』
1年間患った病気から、祈祷の力によって
劇的に回復した若き日の周藤先生です──
☆
それまでの私は、単に神様が分からないというだけでなく、
神様を無視し、反対し、反逆していました。
そのように反逆する者を抱き締め、
じっと一緒に耐えてくださり、
悔い改めの涙にぬれる一週間を通過させて、
人生で初めて手を合わせたとき、その瞬間をばっとつかんで、
力を与え、癒してくださった神様でした。
この体験のおかげで、神様が存在していること、
神様が愛のお方であられること、
人間は神様と通じ合えることを理解することができました。
神様を否定し、無視していた私を、
神はお見捨てになりませんでした。
神様は、私の傲慢さが打ち砕かれるまで、
苦難の路程を通過させてくださったのです。
私が神様を呼び求めるのを待っておられたのでした。
悔い改めによって心が浄化された後、
神様は聖霊を送られ、私をかき抱いてくださったのです。
神様が分からなかったのは、神様が存在しなかったからではなく、
自分があまりにも不純な存在で、清い神様には
相対できなかったためであることが分かりました。
☆
床(とこ)を上げて、外を歩き始めたとき、
不思議な体験をしました。
一年間、家で横になっていたので、足が弱ってしまい、
思うように歩けず、 四、五日は家の周囲の百メールか
二百メートルくらいを行ったり来たりしていました。
そのとき、なんと、自然が私に語りかけてくるのです。
言語ではないけれども言語であり、
文章ではないけれども文章になっていて、
何と言っているかが分かりました。
自然は、「よかったね、よかったね」
「おめでとう、おめでとう」と言ってくれました。
万物には心があり、言葉があるのです。
私が癒されたことを共に喜んでくれました。
青空と風に揺れる木々の緑の葉は、
私のために踊っているようでした。
太陽も私のために輝いているように感じるのです。
このような感覚が一週間くらい続きました。
それまでこのような喜びをしたことがなかったので、
世界中の人々に大声で知らせたい気持ちでした。
☆
この間、もう一つ教えられたことがあります。
それは、私は親戚にいろいろとお世話になったり、
愛されて恵みを受けたりしてきたのですが、
心の一番の奥底に、
『自分を本当に愛してくれる者がいない』
という思いがあったのです。
私は、『なぜ一人として、全存在をかけて
私を愛してくれないのだろうか』と考えました。
まだ、祈りとは言えない祈りの中で、
『おまえは誰も自分を愛してくれない
と思っているかもしれないが、
おまえは誰かを自分の生命以上に愛したことがあるのか』
という声にも似たインスピレーションを受けたのです。
『おまえは、一人も命を懸けて、
愛した人がいない。
だから、一人も命を懸けて愛してくれる人がいないんだ。
分かるか』
これは、私には、ショッキングな体験でした。
☆
このことが、後ほど私が、ろう学校の教師を何年か務め、
キリスト教会に入り、さらに再臨摂理に導かれる道へと
つながっていくことになります。
そのときは、このような自分自身を
どうすればいいのかという結論を持たないまま、
もう一度、大学に戻らなければならなくなりました。
私は大学の友人にお願いをして、下宿を探してもらいました。
一週間くらいたって、下宿が見つかったというので
行ってみると、そこは大阪府池田市でした。
下宿のすぐに隣には、キリスト教会がありました。
私はキリスト教に特別に関心があったわけではありませんが、
日曜日の朝、遅く目が覚めると、
美しい讃美歌が聞こえてくるのです。
その美しい讃美歌に引かれて、
私はキリスト教会に行ってみることにしまし た。
このことがやがてイエス様との出会いの道を
開いてくれることになるのです。
☆
神様が存在することを知った時の喜びというのは、
格別なものだと思います。
み言を知り、神様と出会った皆様も同じような
体験をしてこられたのだと思います。
私は、神様がいると初めて信じたのが、2日修のあとでした。
それからライフトレーニングに繋がりはじめてから、
とても気分が浮ついたような、毎日が新鮮だったことを覚えています。
周藤先生は、「自然が話しかけた」と言われていますが、
真の父母様のような、創造本然の人間であるならば、
自然とも対話できるのかも知れません。
そして、学生時代、キリスト教会の近くに住まれたのも、
神様の導きですよね。
周藤先生が食口になるまでの一つ一つの歩みが、
しっかりと繋がっているのだな、と感じます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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