李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言より、
マルタとマリヤを題材とした話の
3回目です。
☆
マルタの見方
私たちは、人を習慣的に取り扱うことが多いのです。
だから、私たちはよく知っている人、
小学校の時からよく知っている人には、
なかなかみ言を伝えにくいのです。
なぜかというと、小学校当時と同じと思って、
「おい、お前、今どういう意見をもって、
どういう位置で、価値をもったのか?」と言うからです。
歳は同じだけれども、今まで会わなかった期間、
統一教会に来て特修を出て、伝道を三年くらい
したあとに会った時には、その人は子供の時は知っていたけれども
この三年間の私たちは知らなかったのです。
ですから、(その人が)謙遜になって、
「どんな内容をもったのだろう、
どんな価値をもったのだろう」という思いで尊敬すれば、
私たちはその友達に昔の因縁を土台として
自分の秘密が話せるようになるのです。
それなのに、小学校時代に遊んだ者と決定して
扱うものだから、言おうとしても言えない。
言っても、「でっかいことを言うな、
いつそんな哲学者になったのか。
世界的に人類を救う?
でっかいこと言いやがって」と、
かえって冗談話になってしまう。
☆
だから皆さんも、み言を悟ったあとに、
父母のところへ行ってはいけないのです。
なぜなら、み言によって神様と因縁を結んで、
神にとって貴重な自分だということを信仰して帰ったのに、
自分の価値を知らない人は、以前と同様に
自分の産んだ者として、無価値に取り扱うからです。
入信したあとには、以前知っていた者と会っても、
かみ合わないのです。
だから会わない。
ではだれを通じて会うか?
必ず中間の人を通じて会うのです。
☆
お父さんお母さんには、自分が会わずに
自分の友達を通じて話すのです。
両親の知らない、自分の親しい友達に
家に行ってもらうのです。
その人が何回も行って、あなたの息子であるけれど
私は先生として侍るんだという心情でもって、
「あの先生、私たちの教会長……」と侍れば、
両親は、今現れた青年が自分の息子を先生と
言って侍ってきたので、
自分がその人の前で「お前!」と言えないのです。
「なぜ息子のことを先生とあなたたちは言っているのか」。
「ええ、立派な人で、兄弟(教会員たち)に尊敬されているし、
こういう内容をもっている」。
「ああ、そうですか」と、友達を通じて
自分の息子がああいう内容をもっている、
社会的信用をもっていると思うのです。
直接に行けば、外的に血統的に見るから
無視されてしまう。
霊的に相当損をしてしまうのです。
☆
マルタは目に見えるもので判断したのです。
ハム(ノアの息子)もお父さん(ノア)の裸になった体を見て、
その原因を知ろうとしないで、
ただ外的に見たから恥ずかしくなったのです。
それも同じ考え方です。
今まで尊敬していたのなら、
酒に酔ったお父さんを見た時も、
尊敬しながらその理由を知ろうとしたなら、
ハムは失敗しなかったのです。
「なぜ今まで飲んだことのないお父さんが飲んだのだろう。
今までのお父さんと、全然違ったきょうの
この結果が現れたのはどういうわけだろう。
神様から何か啓示を受けてなのか、私たちに原因があるのか、
お父さん自体が酒が好きになってそうなったのか。
これはどういうわけなのだろう」。
こういうふうに分かろうとすれば、失敗しないのです。
8.永遠に生きる信仰
「マルタの見方」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「マルタの見方」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
人は、外見や過去に出会った人として、
判断してはいけない、ということですね。
そういう意味でも、「私」を証ししてくれる、
信仰の子女を立てることが
どれだけ重要であるか、と感じます。
今、真のお母様に侍る義人たちも
どんどんと現れてきています。
家庭連合を「統一教会時代のままである」
そのように見つめる人たちもいます。
時代が変わっていることを知ってほしいし、
過去のままで見つめて欲しくないと思います。
また、「私自身」も本当の意味で、変わった、といえるように、
義人を立てる歩みをしていかなければ、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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