2022年04月30日

絶世の美女より美しい?! 見る人を恍惚の境地に引き込む、天国の自然 《浅川先生“天活”》



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浅川先生の「“天活”のすすめ」
今回は、『香りと美貌で魅了する花たち』です。


人は庭に種を植え、丹念に育てて、
時がくれば、咲き誇る花を見て楽しみます。
鉢植え、盆栽など観葉植物は、
人の目を楽しませ、安らぎを与えます。

しかし、この世の植物は、ある季節が来なければ咲きません。
時が過ぎれば、枯れます。
庭の木々に多くの枝が伸びると見苦しくなり、
庭師を呼んで剪定(せんてい)します。

花や木々の美しさを保つためには、人の手入れが必要です。
しかも、暴風雨が来れば吹き飛び、
日照りが続けば枯れ果てます。

一日24時間、一年365日、人の思いどおりに咲き誇り、
美しさを保つことはできません。
自然の道理と季節の変化に順応しているからです。


霊界の天国の植物や花たちは違います。
天国人の願いを満たして、喜ばせようとするのです。

花たちが、天国人を歓喜させ、心を引き付けるために、
「私を見て、私に目を向けて」と互いに美の競争をします。
一旦、心を引き寄せれば、浦島太郎の物語のように、
百年の歳月を忘れさせるほど、陶酔させるのです。

霊界にもいろいろな次元の美しい自然があります。
その種類は列挙するのも大変なくらいに多様です。

地上では植物園、公園、休養地などで美しい花や木などがありますが、
天上の植物は美しく、地上のそれとは比較できないほどです。

花や木、名も知らぬ雑草など、
それらの美と調和は地上とは著しい差があります。

中でも、特に差があるのは色合いの調和です。

その場に人間が共にいると、より一層麗しく
美しい色と香りを発するようになります。

植物は、人間の心の状態に自ら進んで感応してくれます。
植物は、人間の香りを嗅ぎながら生きているようです。

人間がそばに寄ってくると、植物はおのずから
多様な姿を表現して自らの姿形を自慢し、
その人の心に感応して固有で魅惑的な香りを発散します。

このような天上の万物を見つめていると、
人間はたちまち恍惚(こうこつ)の境地に入ってしまいます。

浅川勇男・著
“天活”のすすめ〜天国への準備はできていますか 5
第一章 天国の自然環境
香りと美貌で魅了する花たち
(blessed lifeより)


天国の自然環境。。。
今回は、花の様相でした。

浅川先生に紹介してくだされば、くださるほど、
天国とは、本当に素晴らしいところなのだと
思わざるを得ないです。

また、天国人になること、
天国に行ける私になること、
このことを目指さざるを得ません。

地上天国、天上天国実現のために、
まい進する私になることを
改めて意識していきたいと思うのです。


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2022年04月29日

感謝すべきなのは、神、そして私の成功のために犠牲になった人たち 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「犠牲の上にある今の私」です。

 
皆さん、先生のことを考えてみましょう。

韓国の元老の牧師さんたちが、先生を訪れました。

その時、先生は彼らに、
「実を言えば、あなたと私は敵です。
あなたは私に反対して、
韓国から追い出そうとしました」
とお話ししました。


ヤコブには十二人の息子がありましたが、
十一人の兄弟はヨセフを殺そうとして追い出しました。

ところが殺されようとしたヨセフが
総理大臣となってから、
彼らはヨセフの所へ来て謝りました。

ヨセフは、自分を殺したのと同じ立場の
その兄弟を許しました。
なぜ許すことができたのでしょうか。

それはヨセフが親に侍らなければいけないはずなのに、
彼がいない時に、兄たちが侍ってくれた
というところを見て許したのです。

 
ユダヤ教とかキリスト教が、先生に反対しました。
それと同じです。

しかし、先生はどのようにして
愛する心をもたれたのでしょうか。

統一教会をなくそう、滅ぼそうとし、
先生を追い出そうとしたことは、許されるものではないのですが、
六〇〇〇年の歴史を通じて、ユダヤ教とキリスト教が
神を支えてこなかったならば、どうなっていただろうか
と考えるときに、許すことができるというのです。


ですから自分を中心としないで、あくまでも
神を中心としてこそ、許しの心が出てくるのです。

ただ漠然と、「愛さなければいけない、
愛さなければいけない」というのでは駄目なのです。

「なぜ兄弟を愛さなければいけないのか」
「なぜ人々を愛していかなければいけないのか」、
そういう心をもたないと、許しの心をもつことはできないのです。

皆さんが、過去を振り返って
「私はたくさんのことを習い、悟りました」
と言えるようになるまでには、
それぐらいたくさんの人を傷つけたお陰だ
ということを忘れてはなりません。

もし、先生が私の代わりにチームを指導したならば、
あのようにしなかったはずなのに、
と考えるだろうと思います。
それはいいことです。

 
これをもっと分かりやすく、印象的にするために、
名医の話をしましょう。

ある人が医学大学を卒業しました。
彼はお医者さんになって患者を診るようになり、
学校で習ったとおりに人を診断し、治し始めました。

最初はよく分からないところがあって、
学校で習ったとおりにやりました。
ところがかえって効果がなく、患者は非常に苦しみました。

それでもう一つのことを試みましたけれども、また駄目でした。
そうこうしているうちに、患者は死んでしまいました。

このようにして彼は、いろいろな経験を積みました。
それから後は、人をよく診断して治すようになったのです。
それで彼は、名医と呼ばれるようになりました。

 
名医とは、たくさんの人を犠牲にしたということが前提になるのです。
お分かりですか。

名医になった人は、まず誰に感謝しなければいけないのでしょうか。
自分でしょうか、自分を教えた先生でしょうか。
もちろん、そうでしょう。

しかしそれよりも前に、自分のために犠牲になった
たくさんの人たちに、感謝の気持ちを返さなければいけません。
悟るとは、人を犠牲にしてできるものなのです。


夫婦の関係も同じです。
私が相手を愛するようになったということは、
相手をたくさん苦しめたお陰なのです。

愛さなければいけないと悟ったということは、
過去には愛せなかったということです。
愛せなかったということは、相手を苦しめたということです。

 
星がたくさん付いている将軍が偉いのですか、
何も付いていない兵卒が偉いのですか。

星がたくさん付いているということは、
たくさんの部下を殺したということと同じです。

ですから戦争に勝った将軍は、第一に誰を訪ねますか。
空のように高い位の将軍でも、一番下の兵卒に頭を下げます。

それは、その人たちの死によって、勝利がもたらされたからです。
その星は、彼のものではなく、その人たちのものなのです。

 
ですから、勝利の栄光は、まず第一に神に帰し、
次にその人たちに全部返さなければいけません。
それを自分や自分の家庭に返したら大変です。
自分や自分の家には、その人たちが返してくれるのです。

皆さんが、色々習った、あるいは悟ったというときには、
自分で悟った、自分で習ったというのではなく、
犠牲になったメンバーによって習うことができた、
ということを忘れてはいけません。

足らないリーダーなのに、ほいほいと待ったのは、
リーダーが好きだからではなく、
神の啓示があると思ったからです。

だから、何かを習ったときには、まず神に感謝をし、
メンバーに全部返さなければなりません。
問題児だという人に返さなければいけないのです。


そうしないと、どういうことが起こるでしょうか。
メンバーは皆様を尊敬しませんし、恐る恐る仕えるでしょう。
そういう人を通じては何もできません。

主体と対象の授受作用ができません。
そこには神が運行せず、何も繁殖せず、
悪の循環でしかなくなるのです。


例えば、「水を持ってきてください」と言って頼んだとしましょう。
そのリーダーが嫌いなのに、それは命令だから
従わなければいけないという気持ちだったら、
喜んで行くでしょうか、顔をしかめて行くでしょうか。

また、コップにごみが付いているのを見て、
心の調子が良い時には、「私のリーダーが
これを飲んだら病気にかかってしまう」
と言って全部ふき取ります。

それを飲んだら体が良くなるでしょうか、
良くならないでしょうか。

しかし、命令だからと思って、寂しい心が
水に混じって一緒に入っていたら、いいはずがないですね。

愛を込めた水と心情を込めた水を飲んだらどうでしょうか。
皆様が霊的に明るくなれば、それが分かります。

 
握手にしても、友達と握手をする場合に、
嫌な人と握手しなければならなくて仕方なく握手する時と、
本当に愛する人と握手する時と、
形はみな同じですけれども、内容が違います。

同じように目を見ても、本当に哀れんで見るのと、
憎い心で見るのと全然違います。

だから皆様が、本当に愛して
メンバーや兄弟に対しているのかということは、
その目を見たら分かるのです。

平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「犠牲の上にある今の私」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


とても深い話だと思いました。

お父様が反対し、迫害する人たちを
いかに愛していかれたのか、
その原点にある心情世界を感じました。

人と接するとき、立体的に、歴史的に、
その人を見つめていくことが重要だと思います。

真の父母様のように、
神様の観点にたつこと、
いつも焦点を定めていきたいです。


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2022年04月28日

子供の行動を変えようとして、失敗してきた親たちへ 《家庭力↑UP講座いいとこどり・多田先生》



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家庭力アップ講座をまとめた
多田 聰夫先生の「通いはじめる親子の心」

blessed lifeにこのように紹介されています。
「本書に出合った時からが
子育ての新しい出発です」

はじめに

文鮮明(ムン・ソンミョン)先生が解き明かされた「統一原理」は、
神様の創造理想が、個人完成、家庭完成、理想世界実現、
すなわち三大祝福の実現であることを明確に説いています。

そして、神様の救いの摂理は、人間始祖の堕落によって失われた、
この神様の創造理想を復帰すること、
三大祝福を復帰することであると説いています。

三大祝福とは、創世記一章28節にあるように、
個性完成、子女繁殖(家庭完成)、万物主管です。

個人として人格を完成し、成熟した後には結婚して
夫婦となって子女を生みふやし、愛に満ちた家庭を築くこと、
そして神様の真の愛で世界を一つの家族にすること、
「神のもとの人類一家族(One Family under God)」の世界をつくることです。


そのようなみ言(ことば)と出会い、愛する子女を失った
神様の涙の心情を知って、私たちは、神様に喜びをお返ししたい、
いまだなされていない神様のみ旨を成し遂げてさしあげたいと、
一生懸命に歩んできました。

ところが、家庭については、子供に対しては、
あまり取り組んでこなかったのではないでしょうか。

み旨を歩む中で、全体目的を優先するあまり、
家庭をなおざりしてきたことが多かったのではないでしょうか。
世界のために投入すれば、自分の家庭は神様が守ってくださる、
導いてくださるといった信仰観を持つ人が多かったように思います。


統一教会の信仰を持ち、祝福を受けた祝福家庭の父母は、
当然、子供に、親と同じように信仰を持ち、
貴い祝福を受けてほしいと願っていす。

神様の祝福を受けて生まれた二世なので、
神様を信じるのは当然であり、
祝福を受けるのは当然と思ってきたことでしょう。

しかし、親と子は同じではありません。
親は十年、二十年と、信仰生活をする中で神様と出会い、
さまざまなことを体験しています。
その上で、神様と真の父母様に、
あるいは祝福に対して確信を持っているのです。

子供たちは、そうではありません。
神様への愛も、心情も、自然に芽生え、育ってくるものではないのです。

父母と同じように、み言と出会い、さまざまな体験を通してこそ、
信仰が育ち、神様の心情を体恤(たいじゅつ)するのです。

たとえ、同じような体験ができなかったとしても、
親の気持ちに共感できたなら、
自分も親と同じような道を歩んでみたいと思うものです。

 
これまで子供に、親の願うとおりになってほしいと、
日常生活の中で、子供を変えようと、
いろいろしてきたのではないでしょうか。

子供の行動を正そうと、あるいは子供の性格を変えようと、
一生懸命に努力してこられたでしょう。
しかし、思うようにできなかったのではないでしょうか。

子供の行動を変えようとするのではなく、
なぜそのような行動を取るのか、
子供の気持ちを理解できる親になろうと考えることが大事です。

しかし、今までの生活習慣が身についているわけですから、
すぐには自分自身を変えることは難しいでしょう。

多くの場合、子供は親が理解してくれていないと感じています。
親も子供のことが理解できないでいます。

しかし、親子の間で「理解する」というのは、
理路整然と説明して理解するというのではないのです。
気持ちを同じように感じてくれたとき、
共感してくれたときに、理解された、分かったとなるのです。


本書は、今日まで全国で行ってきた「家庭力アップ講座」から、
子供への対し方について内容を絞ってまとめたものです。

共感することの大切さ、その方法について提案しています。
実際にそれを実践してみてください。

親子の絆を深めることに、少しでもお役に立てればと願っています。
また、ご意見やご感想、こんな方法もあるといった
ご提案など、お聞かせいただければ幸いです。

 
2014年6月 著者

多田 聰夫・著(光言社・刊
『通いはじめる親子の心〜子供の気持ちに「共感」する』より)

通いはじめる親子の心 1
はじめに


子供を教育して祝福に導く。。。
祝福家庭の食口であるならば、
誰もが願い、取り組んでいることだと思います。

しかし、簡単に導かれる場合もあれば、
投入してもその如くにならない場合もあります。

多田先生の言われるように
「神様の祝福を受けて生まれた二世なので、
神様を信じるのは当然であり、
祝福を受けるのは当然と思ってきた」。。。

私自身もその中の一人であります。
そして、そのようにスムーズにいかないのが現実です。

以前紹介したこともあったかと思いますが、
改めて私も学びなおして、子供に正しく向かっていきたい、
そんな思いをもって、紹介させていただこうと思います。




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