李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「幸運な者、ヨセフ」の〆となります。
☆
悲しみに出遭っても大きな希望をもつ
神は悲しみの神でいらっしゃいます。
御自分の願いをこの地上に成就させることができず、
人間の僕となって、昼夜仕えてこられました。
人間が罪のために悩むとき、
その罪の荷を引き受けてこられたのであり、
時代ごとに個人と家庭を立てて、
御自分の国をつくりあげるために、
不信を受けつつ、悲しみと恨みの道を歩まれたお方です。
私たちの短い信仰の道程の中においてさえ、
神は私たちのためにどれほど苦労されたでしょうか。
この世からつまはじきにされる道だということを
覚悟の上で入ってきた私たちではありますが、
私たちが途中でためらうとき、
神は私たちに冒険をさせ、
決断を下させたのではないでしょうか。
御自分は高貴な道、永遠なるものをもっておられ、
人間にそれらを与え、
連れていこうとされる立場であるにもかかわらず、
私たち一人一人に懇願しながら、そして
私たちを慰めながら、励ましながら
導いていかなければならない神ではなかったでしょうか。
このようにつらい悲しい道を行かれた神であるがゆえに、
苦労の、悲しみの道を行く人と
共におられる神でいらっしゃるのです。
悲しいことに出遭っても、大きな希望を抱く者を見るとき、
神は彼と共におられるという事実を、
ヨセフの路程を通してはっきりと知ることができます。
私たちは、わずかの苦労、悲しみでも、
自分の弱さを弁明し、自分を支持する同調者を
求めようとしますが、ヨセフは心を強くもって、
自分の責任を探して進み行きました。
私たちが恨み言を言うとすれば、
その背後におられる神を
より悲しませてしまうことになるでしょう。
私たち以上に、悲しみと恨みの心情を
抱いているお方がいらっしゃいます。
「苦しい」と言うのをやめましょう。
私たち以上に、無念な思いで
苦労されているお方がいらっしゃるのです。
原理的に見れば、だれもが
ヨセフのような道を行かなければなりません。
だれもが、原理の道を行くようになっています。
神が人間に対する願いがあり、計画があり、
私たちが行くべき原理の道を与えておられるのです。
私たちはどのような峠を越えて、
この道に入ってきたのですか。
私とは、神が共におられることのできる
峠を越えた私でなければならないのです。
過ぎた日の苦労したことを、
今になって後悔する人はいないでしょう。
純真な気持ちでみ言に従った私たちですが、
ちょっとした苦労を「嫌だ」と言って
士気を落としてしまい、戻ろうとしても恥ずかしく、
進むには誇るべきものがなくて、
悩んでいるという人はいませんか。
「このような落伍者になる人は、
私たちの周囲にはいない」とは言えないのです。
「信じたのは、現実を知らない
愚かさだったのではないか」と悩む人もいます。
自分よりも良い生活をする信仰の先輩を見て、
その人の背後にある天との関係を見ることはしないで、
打撃を受ける人もいます。
カインは、アベルと天との関係を見て
寂しく思い、打撃を受けました。
☆
役事は悲しみを神と共に味わってこそ
今日の私たちの課題とは、
どのようにして天国を実現するかということです。
果たして神が自分と共にいてくださるのか、
悲しみと恨みの道に出遭ったとしても、
ヨセフのように雄々しく、一つの中心に向かって
進んでいくことができるだろうかということです。
神も悲しみを抱いたお方です。
イエス様も苦労と悲しみの道を歩まれました。
私たちの師も、悲しみに浸った
苦労の道を歩んでおられます。
私たちには、いまだ苦労と悲しみを
味わいながら行く道が残されています。
私たちは家々を回りながら、
「苦労を通して悲しい心情を味わうために
行くのだ」このように考えなければなりません。
「私が行く所で天が証してくれるかどうか見てみよう。
受け入れない人に対して、天が審判するかどうかを
見てみよう」と安易に考える道でなく、
私たちには、悲しみに遭わなければならない道が
残っていることを知らなければなりません。
その悲しみを共に味わう者を通して、
神が役事されることを、きょう、
ヨセフの路程を通して学びました。
14・幸運な者、ヨセフ
「悲しみに出遭っても大きな希望をもつ」
「役事は悲しみを神と共に味わってこそ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「悲しみに出遭っても大きな希望をもつ」
「役事は悲しみを神と共に味わってこそ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
苦しい時、悲しい時、「私だけ・・・」
という思いになってはいけない、のだと思います。
神様もともに苦しみ、悲しまれてきたのだ、
そのことを実感することができるとするなら、
神様をもっと身近に感じることができるでしょう。
お母様が神様の心情を話される時、
すぐに泣かれる姿を見るたびに、
ともに苦しみと悲しみを乗り越えてこられたからだ、
そのように思います。
神様とともに心情を共有する、
そんなものになっていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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