2022年06月18日

世界の友よ、キリスト教へのアボジ・オモニの思い ♪「手をつなごう」2 《続・聖歌のゆかり》



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過去の恨みは水に流し
世界の友よ手をつなごう
世界が滅べば何がある
耐え難い胸も今は忍べ

「手をつなごう」より


聖歌U部の8番、「手をつなごう」に関する
天野照枝先生のお話。

少し期間が空いてしまいましたが、
以前紹介した証しの続編、
「怨讐のキリスト教を心から愛し、
尽くされた真の父母様」です。



(「手をつなごう」を作曲した西川)太満恵さん(~2018、777双)の聖和式のとき、
初期の頃に超教派運動を共にした大脇準一郎さん(777双) が、
次のような追悼の文を書いて、参加者に配ってくれました。

これを読むと草創期の真のお父様の姿がしのばれます。

「今朝、去来する思いを述べ、 追悼の花輪としたい。
 二千年のキリスト教の歴史が現代摂理と
 つながらなかったことは、二十世紀最大の悲劇であり、
 お父様の慨嘆を聞いた人も多いことであろう。

 まさにイエスの前に道を直くすることができなかった、
 洗礼ヨハネの失敗が繰り返されたということである。

 お父様の生涯の大半はこのキリスト教会の失敗を
 蕩減復帰するためであった。

 ......(輸血で)血を売ったりして資金をつくっていた
 教会初期の頃から、お父様は
 『教会の全予算の四分の三は超教派活動に使った』
 とおっしゃっていたが、四十年間も『異端だ』と
 批判されながらもキリスト教会の看板を下ろすことなく、
 歩んでこられ、まさに神様の真の愛の実践をされてきた」



大脇さんが指摘されたごとく、
真のお父様の超教派運動に対する思いは
強く、深いものでした。

「教派分裂した世界のキリスト教を、
神霊を中心として統一していく超教派運動は、
蕩減復帰歴史の中心軸である」
と語られ、
一九六八年から日本でも、小規模ながら
超教派運動が始まったのです。


キリスト教会の朝祷会に参加すると、
「統一教会の青年は出ていけ」と言われたのですが、
その中で大きな理解を示した牧師がいました。

絵を描き、書をよくする、人脈に恵まれた方でした。
それが、中村信一牧師です。

ご夫妻で共に立ち上がってくださり、
この方を中心に、既成教会と連結する
ユニオン教会が設立され、その補佐の立場として、
私の夫の天野哲也は天の願いを受けました。

この話をするのは、真のお父様の
深い思いをお伝えしたいからです。


キリスト教渉外は多くの苦労がありましたが、
人格的に素晴らしい義人も準備されていました。

しかし、反対も激しく、積み上げた計画が
反対派によってガラガラと崩れることがあり、
夫は苦しみました。

その頃、夫は訪韓の機会があり、
韓国で超教派を担当していた
李載錫先生(3双)と親しく交流し、励ましを受けました。

李先生は、他の幹部から「反対するキリスト教会に
なぜお金を使う必要があるのか。
もっと私たちのために使うべきじゃないか」
と責められていたとのことです。

そのことに対して真のお父様は、
「先生はキリスト教に恩があるんだよ」
としみじみと語られたそうです。

「えっ、恩?」 と夫が思ったとき、
お父様は「親である神様を、歴史を通して
犠牲になりながら守ってきたのは一番にキリスト教だよ。
だから恩があるんだ。
先生はヨセフの気持ちだよ」と、お話を続けられたのです。

夫にとって衝撃的なみ言でした。


真のお父様のおっしゃったヨセフとは、
創世記に出てくるヤコブの息子のことです。

兄たちは、特別に親に愛される弟ヨセフに激しく嫉妬し、
ヨセフを殺そうとし、結局、奴隷として売ってしまいます。

その後、ヨセフはエジプトにおいて無実の罪で
何年も獄に入りますが、パロ王の夢を解いて
国の危機を回避させ、総理大臣にまでなります。

そこに兄たちが食料を買いにきて、やがて
ヤコブ氏族七十人がエジプトに移住し、
四百二十年の後にはイスラエル民族として
出エジプトするまで歴史が進んでいくのです。

真のお父様は、「兄たちはヨセフを奴隷として売った。
たまりかねる恨みだ。
それをなぜヨセフは許したか?

ヨセフは親を愛していた。
自分がいない間、年取った親を守ってくれたのは
この兄たちだと思えば、ありがたい。
先生はそのヨセフと同じ気持ちだよ」
と話されたのです。


それを聞いて、夫は自分の足りなさを
心から悔い改めたといいます。

真のお父様にとって、ご自分を殺そうとし、
み旨の道を阻んだ韓国のキリスト教は怨讐です。

しかしその敵に対して、親なる神を守り、
再臨基盤の国をつくるために迫害を超えて闘ってくれた、
という恩をもって尽くされるお父様の姿を知ったのです。

かつてキリスト教徒たちは刑場に引き出されながら、
イエスとマリヤの名を呼びました。
親と共に死の場も超えていこうとする
いじらしい子供たちを抱き締めながら、
どれほど神様が泣かれたことでしょう。

さまざまな、歴史に残る神様への彼らの孝情を、
真のお父様はご自分の恩と受け止め、
「(超教派活動は)物的犠牲・人的犠牲を
覚悟しながらやっている」 と言われたのです。

なんというお方なのか!

このあと二十年近くも超教派活動に関わった
私たち夫婦にとって、前に進む勇気を頂いた、
かけがえのない愛の記憶です。

ヨセフが兄たちを許すときの「あなたがたは
わたしに対して悪をたくらんだが、神は
それを良きに変わらせて ...」 (創世記五〇・20)
という聖句は、今も私の宝物です。


真のお母様は、真のお父様と一つのお心で
いらっしゃるので、キリスト教が再臨主の環境圏に
なれなかった二十世紀最大の恨を、
ご自分の責任として解いておられます。

過去のキリスト教の覚醒運動やリバイバルは
全て聖霊体験から始まっており、その実体であるお母様は、
キリスト教界の義人を、直接また霊的に導いて育ててこられました。

* そして、真のお母様は、摂理の大きな一区切りのとき、
米国 で三万人のキリスト教指導者を中心に
WCLC(世界聖職者指導者協議会)を設立され、
天に捧げられました(2019年2 月9日)。

その年のクリスマスを盛大に祝い、
世界的なオンライン礼拝でお母様が、
「このたびはイエス様がとても苦労して頑張られたので、
感謝の拍手をしましょう」とおっしゃって、
拍手したのを忘れることができません。

天野照枝
〜続・聖歌の恵み〜
聖歌第二部8番「手をつなごう」前編
(「世界家庭」2021年6月号より)


真のお父様のキリスト教に対する見つめ方、
本当に素晴らしいと思いました。

ヨセフの歩みを例えて、
ご自身の思いを証しされていましたが、
善なる心の塊なんだな、と感じます。

余談ですが、「まるくまーる」さんのブログに
こんな記事がありました。【良寛逸話@「渡し舟の権三」】
http://kitasendo.blog12.fc2.com/blog-entry-3039.html?sp

良寛和尚も本当の善人であったんだな、
そのように思わされる逸話です。

私たちは、真の父母様と同じ「メシヤ」の称号を持つ、
「神氏族メシヤ」の一員であります。

恩讐を愛する精神をもって、
歩んでいきたいと思うのです。





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2022年06月17日

「愛」はすべてに勝つ! 人類が失った愛を取り戻そう 《李相軒先生の霊界メッセージ》



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李相軒先生の「霊界の実相と地上生活」
今回は、『神様の愛の形態A』です。

神様の姿は火であり光である

光が愛の姿であると、何で判断するのでしょうか。

神様の姿は、火であり光であるために、
神様の光を見れば、人間の心の中に、
愛の要素がそのまま作用します。

まるで、電気のスイッチを押せば明かりがつくように、
神様の光を見れば、愛が作動し、
人間の心の中は、愛の塊で和するようになるのです。

祝福の関門を広げた理由

神様が、本来人間に願われる根本的なみ旨は、
愛で創造された当時の姿そのものになるということです。

しかし、人間始祖の堕落で、その後孫たちは、
初めから本性の愛を持って生まれることができませんでした。

二重構造を持った人間、すなわち、
二種類の指向性の心を持って生まれた人間なので、
出発から誤った人間の構造が、神様の胸を痛めたのです。

それゆえ、復帰摂理でいう人間の根本復帰と、
神様の圏内から離れた二種類の指向性の心を持った
人間の問題を解決するためには、
再び生まれる重生の過程を経なければなりません。

そうして、原罪のない人間の姿で生まれてこそ、
本来神様が願われた愛の本体である
本性の姿に似ることができ、この国、霊界に来て、
神様の完全な愛を体験することができるのです。

それで、重生の過程を経るには、
真の父母様によって生まれ変わらなければいけないのです。
これが祝福です。

最近、祝福の関門を大きく広げて、
大きな恵沢を下さる理由が、まさにここにあります。

彼らは理解できないとしても、生まれ変わるという
手続きを通じて、恵沢を受ければ、
この国では祝福を受けた民になるのです。

真の父母様が生きているうちに、多くの民たちに
限りない特赦の道を下さるのですが、
それを受ける者は天国人となり、
重生の過程を経た者となるのです。

そのように、理由なく、地上の後孫と先祖が
共に福を受ける期間であることを知るべきです。

愛は神様の最も大きな贈り物

愛は、人間が世の中に生まれる時、神様から受けた、
神様の最も核心的な重要部分です。

人間は、それをそのまま相続すべきでした。
しかし、それを誤ったことで、神様との関係が切れたので、
これを回復するための方法は、
人間が神様に似なければなりません。

神様に似るための最善の方法は、
神様の子女として、愛の本然の姿に帰らなければならないのです。

愛、愛、愛、それはすべてに勝ち、すべてを溶かし、
すべてを成すことができる根本の力です。

愛だけが、人間が神様から受けた最も大きな贈り物であり、
私たちが神様の子供であるという証しです。

愛!
失った本然の愛を探すため、
苦労して努力しなければならないのです。

(光言社刊『霊界の実相と地上生活』より)
第一部 霊界の実相と地上生活
第二章 霊界で見た暮らしと地上生活
九 神様の愛の形態
霊界の実相と地上生活(15)
神様の愛の形態A
(1997年7月14日)


李相軒先生は霊界から
「神様を知ってほしい、神様の愛を感じてほしい」
そのような切実な思いを訴えていることを感じました。

神様とともにある私、
神様の愛を実感しながら歩む私になれば、
何の恐れもないし、み旨に邁進できると思います。

聖霊の実体であられるお母様から、
天運を受けることも、
どれだけ重要なことであるでしょうか。。。

神様の愛を受け取るにふさわしい器を備えるべく、
神様、父母様を慕いつつ歩んでいきたいと思うのです。




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2022年06月16日

私が主人を駅まで見送る理由、人と自然に感謝する朝の新習慣 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。
今回は、「出勤する夫と歩く駅までの道で」です。


(女性 50代)

私は毎朝、夫が出勤する時、家から駅までの道を
一緒に歩いて見送っています。

20分ほどの時間を、夫と話したり、
時にはただ黙って一緒に歩くことを楽しんだりしています。

帰りの道では、「人と万物に感謝する」
ワークをしながら、自然と共鳴するよう心掛けています。

この習慣は昨年、良心が教えてくれて始めたものですが、
心の健康にも体の健康にも、とても良いと感謝しています。


最近、夫を送った帰り道、いつものように
道端の花を眺めながら歩いていると、
自転車に乗ったおじさんが、歩道脇に続いている
ツツジの生け垣にポイとごみを投げ入れました。

それでもツツジは、何ごともなかったように
黙って咲いていたのです。

私は、誰にも気付かれなくても、
どんな扱いを受けても、
静かに「ために」存在し続けているこの自然の姿に、
「これが堕落していないということなんだ」
と気付かされ、「自分がない」ことの
気高さと美しさに感動しました。

しばらくして、大切なことに気が付きました。
おじさんが捨てたごみを拾ってあげなかった!

戻って探しましたが、どの辺りだったか
分からなくなってしまい、ツツジの生け垣に
「ごめんね」という思いを送りました。

すると、ツツジから「いいんだよ」という、
許してくれているような感覚が伝わってきたのです。

私は今度、良心からの気付きがあったら、
すぐに実行しようと心に決めました。

 
すると程なくして、後ろで、
誰かとあいさつしている男性の声が聞こえました。

その男性は、私の横を通り過ぎていく時、
私にもあいさつをしてくれたので、
私もその人の背中にあいさつを返しました。

そのかたの顔は見られませんでしたが、
すがすがしい気持ちになりました。

良心が、「出会う人全てにあいさつをしたらいいよ」
と教えてくれているように感じました。

「これだ」と思い、家に着くまで
出会う人にあいさつをしました。

知らない人でも、兄弟姉妹のように心が
つながるのを感じ、何気ない日々の暮らしの中にある
平和と神様の愛を実感できた、素敵な朝となりました。

私の心の中にいる神様 125
出勤する夫と歩く駅までの道で
(blessed lifeより)


何気ない日常において、
神様とともに会話し、
良心の導かれるままに生活することは、
どんなにか素晴らしいことでしょうか。。。

天の摂理、み旨にまい進することは、
当然重要なことですが、
それとともに、日々の生活において、
神様を喜ばせる良心を中心とした生活は、
どれほど貴いことであるか、と思わされます。

良心の声に耳を傾ける生活、
そのことを常に意識できるようしていきたいと思います。




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