2022年06月15日

「教会員は先生のお蔭で金持ちに」 神様が絶対損をしない理由 《史吉子先生》

全てを与えても惜しくない父母の愛



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史吉子先生のみ言。
今回は、「神様の両面性」です。

神様の両面性

では、もう一度神様についてお話します。
お父様は、その誰よりも深く神様について研究されました。
それでお父様は、誰よりも神様についてよく知っておられます。

そのように研究された結果、
神様は全く別のように見える両面性を持っておられる
と言うことに気づかれました。

すなわち、神様は相対性の神様、
数理性の神様としておられます。


先ずは相対性の神様についての部分、
相対性について説明します。

相対性とは、主体と対象があると言うことです。

そして、主体は投入する、与えると意味です。
主体は与える側で、対象は先に受けて
主体に再び返してあげなければなりません。

ところで、返してあげる時には、 ここに何がつくのか?
受けたそのままを返してあげるのではなく、
利子がつくと言われました。

私たちが銀行に貯金をたくさんすれば
するほど、利子がたくさんつきます。

ところが、もし対象が受けるばかりで、
それを返してあげなかったら、
この対象は存在することができないのです。
自滅するのです。

それで、 この授受作用の原理に拠って見ると、
与えれば与えるほど、より多くの利子が返って来ます。
神様は、絶対に損をすることはしないのです。


天宙の中心には、神様がおられます。
そして、この地上の中心は人間です。

神様はまた、父母であられます。
そして、人間は子女です。

皆さんに子女がいると思います。
ところで子女に対してはどうですか?
子女は無条件に愛らしく、
無条件に全てを与えてあげたいし、
限りなく全てを与えても惜しくはありません。

それがまさに主体である父母が、
対象である子女に与える愛の本能です。

これは、どこから出て来ましたか?
神様から出て来ました。


神様は父母であられるので、
子女である人間に無条件に与えるのです。
損得勘定をすることなく与えます。

神様がくださればくださる程、
その子供はそれを受け取ってお返しする時には、
より多くお返ししなければならないのです。

その子供が大きくなって孝行息子になり、
国の忠臣となり、素晴らしい人になればどうなりますか?

父母はその子供を見つめる時、
子供のために全てを与えても惜しくなく、
もっと大きな生き甲斐を感じつつ愛おしく思います。

それが、父母が子供に投資した利益です。
父母はつまらない物質的な利子のことを言ったりはしません。
真心を込めて子供に投資すればする程、
自動的に利子がつくからです。


神様をなぜ父母と言うのか?
神様はなぜ父母の心情を持っておられるのか?

神様が人間を創造された時、
ご自身のことを全くお考えにならず、
ただ自分の子女にどうすればもっと良くして
あげられるかと言うことだけ考えられたのです。

神様は父母の心情しかありません。
兄弟の心情や夫婦の心情もそこまでは行けません。
それで神様を父母だと言えるのだとおっしゃいました。
これが授受作用の愛の原則です。

人間も、自分の子女が
父母である自分より優れていることを願います。

お父様が私たちに教えてくださった
驚くべきことは何かと言うと、
神様が父母であり、人間が子女であるが故に、
神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられるのです。


このみ言も、初めて聞くみ言です。

私が既成教会に通っていた時、
いつも神様は高い所にいらっしゃって、
人間は罪人で、イエス様を信じれば天国に行き、
救われたと言いながらも、いつも罪人だと言います。

神様と人間の距離が縮まりませんでした。

私が統一教会に入って創造原理を聞いて、
お父様のみ言を聞いてみると、
神様はそのまま高い所にいらっしゃり、
私が上がると言うのです。

私が神様の子女になれば、私は神様の所まで上がるのです。
それが変わりました。


神様は父母であられるので、子女である人間が
ご自身よりもっと優れているからと言って、
絶対に嫉妬される方ではありません。

人間の父母も、子女がより優れていると言えば喜びます。

お父様は、「ああ、そうか!
父母であられる神様は、
子女である人間がより優れていることを願われるんだ!

どうしてそうなのか?
人間は神様の子であり、神様の愛の対象であるからだ。」
と感じられました。

このような内容は、世界中のどこに行っても
聞くことができないみ言です。
お父様はこのような貴い内容を明らかにされたのです。


いつかお父様が、こうおっしゃいました。

「神様も人間と共に成長する!」。
これは、どれ程驚くべき内容でしょうか?

神様のように完全な方が人間と共に成長すると言うみ言が、
私には理解ができませんでした。
それで、お父様にお伺いしてみました。

「お父様、神様が本当に小さな子供のように成長しますか?
この話を既成教会の信者が聞いたら、変に思うでしょうね。
しきりに、自分たちとは違うことを言うといって迫害するのに、
神様が本当に成長するんでしょうか?」。

そうしたら、
「神様はもちろん完全であられるけれど、
愛だけは対象が無ければ感じることができない。
皆さんは子女を産んでみたからわかるだろう。

子供が5歳になれば、5歳の友達として
ママゴトも一緒にしなければならないし、
子供が大きくなればなる程、
そこに合わせてやらなければならない。」
とおっしゃいました。


そのみ言を聞いた時、私はぼーっとしていました。

そうしたらお父様が、
「愛と言うものは目に見えないじゃないか?
だから、外部から、 相対から刺激が来ないと、
あっても無いのと同じだ。」とおっしゃいました。

昔、お父様は私たちの心は、体の中にあると言われました。
ところが、人間は、自分の体の中に
私の心があるのに心がわからないと言い、
神様もどこにでもいらっしゃるのに、
神様がいないと言います。

神様は、何か刺激がある所に現れます。
お父様が「君たち、手を上げて、
自分の太ももを力一杯、叩いてみなさい。
痛いだろう。

これがまさに、私の心が私の体全体の
どこにでもあると言うことを語っているのである。」
とおっしゃいました。

心は、体全体に満ちています。
外部から体をばしっと叩くと、自動的に
「痛い!」と言う声と共に、心が動くのです。

このように外部の刺激を受けたその所に心が現れるように、
神様も刺激がある所に現れるのです。

相対から刺激を受けてこそ愛を感じるように、
愛は相対的です。

そして、人間が成長するにつれて、
神様の愛も相対的に成長します。
それで神様も成長すると言う言葉が成立します。

どうですか?
理解できますか?
そのように、神様と人間の間はとても近いのです。

私たちは今、相対性の神様、
愛の神様について学んでいます。
そして、授受作用を学んでいます。


お父様が、「授受作用さえ確実にわかれば、
原理をほぼわかったと言えるだろう。」
とおっしゃったことがあります。

続けて、
「本当に私たちが相対のために与えて、
また与え、それがすぐには返って来なくても、
とてつもない大きな利子がついて返って来る。

私はそれを知っているために、
常に与えて、また与える。
損をしても与える。

これからの一生の間、
私が全世界に投入したものが全部返って来て、
統一教会員はそのお陰でお金持ちになるだろう。

人も帰って来るし、お金も返って来る。
だから、私は絶対に損をしていないと思う。」
と、おっしゃいました。



「神様はご自身よりも子女である人間が
より高くなることを願っておられる」
「神様も人間と共に成長する」
本当にこれは、驚くべきみ言です。

神様の本当の御姿に出会われた、
真のお父様ならではのみ言であると思います。

全知全能な神様ではありますが、
愛においては、対象が完成しない限り、
完成してはいない、ということです。

神様は、親であり、父母である、
そのように証しされた真のお父様。
授受作用の原則通り、
与えて忘れる歩みをし続けていかれました。

私たちも本当の「金持ち」になれるよう、
与えて忘れる精神を持って、
日々のみ旨を歩んでいきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 09:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 統一原理・統一思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年06月14日

松本ママのような烈女を、世界でも見たことがない! 《西川先生》



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先日までお送りした
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』
書籍に寄せられた、西川先生の
メッセージを紹介します。


私の松本道子さん

人生には忘れられない幾人かがいる。
その人たちは自分の最愛の人であるか、
または命の恩人であるか、それとも
価値と意義ある人生を共に苦労した人かである。

松本道子さんは私にとってはその一人である。

今より20数年前、私は天父の心情に涙し、
天宙復帰の情熱に燃え日本に宣教に来たものの、
我に自由もなく、人の子の枕する所もない。

外見は哀れなこの青年宣教師に
彼女は心身共に犠牲と協力を惜しまず、
今日の日本統一教会の創立者の一人として
永遠に天宙史に輝く人である。

信じられない時に信じ、天命には喜んで殉じ、
ある物すべてを捧げ、できない困難、十字架の荊(いばら)の道を
血と汗と涙で歩み続けた人である。

時には心身共に疲れ切っても、
天父の愛を知るとまた立ち上がり、
また倒れても
天宙復帰の使命を思うと働きだす道子さんである。

今日病身であり自分をかまうのも大変なのに、
千里の道を行き、み言(ことば)を獅子(しし)王のごとくに
語り続ける天の烈女である。

私は世界の巡回師として各国を訪れるが、
彼女のような天の烈女をみたことがない。

私は彼女の師であり真理は教えるが、
信仰態度は彼女に常に無言で教えられる。

堕落した人間には完全がない。
誰でも理想と完全を目指して努力している。
我々成約聖徒も同じく完成を指向して歩んでいる。

ゆえに誰でも性格に短所があり、行動にも欠点があり、
仕事にも時には失敗がある。

しかしながら松本さんにはあまりにも神と人を愛する心と、
生涯に神と人類に尽くした功績が多いので、
この人を批判すれば私が恥ずかしくなる人である。


私が一番最初に韓国の牧師さんに紹介された時の松本さんは、
普通の平凡な韓国女性であった。

しかし私が彼女を知って一番最初に発見したことは、
この世の人に対し、またこの世的な事柄に対しては平凡であるが、
神に対し真理に対し、師に対しては
あまりにも熱心で信仰的で烈(はげ)しい人ということである。

彼女は自分の師を尊敬することは世の誰よりも勝り、
真理を喜ぶことは有頂天のごとく、
熱心なる信仰は狂信者のごとく、
働くことは牛のごとくであった。

彼女は教会に入会以来
私の命令または意見に逆うことが一度もなく、
何事を思い行っても神を中心にして信仰的であった。

一度やり出したことは中途に挫折(ざせつ)することがなかった。
成せばなるの信念を持ち続け、いつも成就して勝利者であった。

ゆえに天国は彼女のものであり、
地では永遠に彼女の業績は天の明星のごとく輝くであろう。

1982年2月10日
西川 勝

松本 道子(1916〜2003)・著(光言社・刊
『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)
「私の松本道子さん」
(blessed lifeより)

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「天の烈女」
松本ママを表現するには、
本当に適した言葉ではないでしょうか。

西川先生の生命がけの歩みによって、
天は松本ママを呼んでくださいました。

今、摂理の黄金期と言われる時、
天は義人を準備しているといいます。

神様が準備している人に出会うため、
今日も、精誠を尽くしていきたいと思うのです。


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2022年06月13日

不運に遭ったときには、人のために尽くす?! ヨセフの場合 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「幸運な者、ヨセフ」を3回に分けて
紹介します。
 

創造の初めに生命の主人であられ、創造主でいらっしゃる神は、
人間と共に暮らしたいと願われましたが、
人間の不信により、創造主としての関係を
もつことができませんでした。

それで、どのようにすれば人間と関係をもち、
神の本来の創造のみ旨を地上に実現することができるか
というところに目的をおいて、
再び人に対して摂理をしてこられたのです。

アダムの家庭、ノアの家庭、アブラハムの家庭、
ヤコブの家庭など、数多い復帰摂理の担当者たちを通して、
神が人間と共に暮らしたいと願ってこられた
姿を読み取ることができます。

そこには、父母なる神が、子女を探して
こなければならなかった切ない事情と、
意思と、願いを、繰り返し繰り返し、
見せてくださっています。

今日、最も大きな問題は、
「私個人はどのように神と共にあり、
どのようにすれば神に所有され、
どのようにすれば神の計画が私を通して
成就するのか」ということです。

今日まで、人間の無知と不信は神のみ旨を遮る
要素となってきました。

しかしノアは神様に従順に従うことによって
分立の審判を下すことができるようにしたのであり、
アブラハムは神が所有できる者として、
神と一体となることによって信仰の祖先として
あがめられる条件を立てることができたのであり、
ヤコブも義と機知でもって、
神が共にいることのできる路程を歩むことができました。

この時間は、神がヨセフと共におられるようになった
内容を知ることによって、どのようにすれば私個人や家庭が、
あるいは私のしている仕事が神の所有となり得るのか、
どのようにすれば神が共にいてくださるのか
ということを調べてみることにしましょう。


    
僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ

自分が神のものになり、自分が神の仕事を代行する
ということが、即、今日私たちが従事している
家庭教会運動です。

そのように考えた場合、神が私たちと共におり、
そのお方が私たちを所有することのできる
心の姿勢をいかにしてもつかということが、
至って重要であろうと思います。


先ほど拝読した聖書の句には
「幸運な者、ヨセフ」という言葉がありました。
神がヨセフと共におられるので、どこに行っても
幸運であったという話が記録されています。

ヨセフは、子供を授かることができずに悲しんでいた
ラケルの息子として生まれました。
母親のラケルは「神が子供のいない私の恥を
すすいでくださった」と言って、
その子の名をヨセフと名づけました。

ヨセフの誕生は両親の嘆きをぬぐい去ってあげることになり、
また父ヤコブと母ラケルの関係を取り戻し、
神とラケルの関係をより近づける契機となりました。

その反面、ヨセフが父母の愛を独占するようになると、
腹違いの兄弟たちからのけものにされるようになり、
彼の将来には険悪な兆しが見え始めました。

かわいい弟が生まれたと家中に喜びがあふれるのではなく、
ヨセフと他の兄弟たちとの間には、ひびが入ったのです。

ヨセフの路程を見ると、幸運ではなく
不運によってのみ連結されています。

ある日のこと、パンを運んでくる
ヨセフを殺そうと兄たちは謀議しました。

兄たちはヨセフを殺して穴に投げ入れ、
父親には、「悪い獣が彼を食べた」
と言おうと計略を立てたのです。

しかし、ユダの提案で死を免れたヨセフは、
イシマエルびとの商人に銀二十シケルで売り渡され、
エジプトに行くことになりました。


それ以前にヨセフは、父母と兄たちの前で
預言的な夢の話をしています。

ヨセフが「私たちが畑の中で束を結わえていたとき、
私の束が起きて立つと、あなた方の束が回りに来て、
私の束を拝みました」と言うと、
兄たちはますます彼を憎むようになりました。

また、「私はまた夢を見ました。
日と月と十一の星とが私を拝みました」
という夢の話を父と兄弟たちに語ったので、
父は彼をとがめました。

このような夢を通してヨセフは、
自分も知らないうちに家族に対して預言を語っていたのです。
この夢が、その家族とヨセフの将来を予言
していることは、だれも知らなかったのです。


その後、ヨセフが侍衛長ポテパルの家に
売られていき、僕として仕えることになったのです。

ポテパルの家は、哀れな境遇におかれたヨセフによって、
祝福されるようになりました。

ヨセフの言うとおりにすると、すべての所有物が
増えていったので、主人は家事万端を
ヨセフに任せるようになりました。

ポテパルがヨセフを見て、
「主が彼とともにおられることと、
主が彼の手のすることをすべて栄えさせるのを見た」
ということを告白したのを見ると、
ポテパルの家が栄えていく事実を通して、
神がヨセフと共におられることを証させたのです。

父母の愛の中で育ってきたヨセフでしたが、
エジプトの地で僕として仕えなくてはならない
悲痛な状態にあっても、自分の事情を前に出すことなく、
その家を神が祝福してくださるように仕えました。

普通は、いかなる人でも自分が不幸に陥ったときには、
人のために尽くす余裕などありません。

しかし、ヨセフはその不幸を不幸として受けるのでなく、
「このようなことを通してこそ天が約束したみ言が成就する」
という希望を抱くことによって、
逆境を乗り越えることができました。

ヨセフは、自分の苦しみを宿命として考えました。
ポテパルの家で、「この苦しみを自分の責任として
負わせることによって、神が共におられることを
証させようとしているのだろう」と考えたに違いありません。

(『牧会』一九七九年秋号より翻訳転載)

14・幸運な者、ヨセフ
「僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


「不幸に陥ったとき、人のために尽くす」
ヨセフは、神様からこのみ言を聞いて、
励ましを受けて、苦難を乗り越えたのでしょうか。

そうではなかったと思います。
おそらく、自分でこの信念をもって、
神様とともに乗り越えていったのでしょう。

また、神様がともにある、ということを
厳しい試練の時ほど、信じ、意識する中で、
心情的恩恵を受けて、乗り越えていったと思います。

ヨセフの歩みは、み旨の中で、困難を受けた時、
私たちを励ましてくださる、貴いメッセージです。
ありがとうございます。

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