李相軒先生の「霊界の実相と地上生活」
今回は、『神様の愛の形態』です。
☆
真の父母の思想
私、李相軒(イ・サンホン)は、地上から霊界に来ましたが、
真の父母様の思想を接ぎ木させること以外には関心がありません。
なぜなら、真の父母様の思想以外には、
もっと次元の高い思想がないということを悟ったからです。
☆
愛がある人と愛がない人
愛とは、人間が生まれる時、
神様から受けた一つの貴い要素です。
しかし、これが人間をして、世の中に
生まれながらにして二人の主人に仕える要素として
作用しているのは残念な事実です。
これが、我々人間において、不幸の始まりです。
愛とは、肉身を通じた
夫婦の愛だけをもっていうのではありません。
人間には、本来の性稟(せいひん)の中で、
生まれる時から持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。
それが愛です。
ところで、人間は堕落によって、
愛の本体を失ってしまいました。
その結果、与えてくださった愛の上に、
新しくペイントをしてつくった
自己中心の偽りの愛に変わってしまいました。
愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。
このような神様の愛を、我々人間は、
分析することもできず、掘り下げてみることもできません。
今、そのような神様の根本的な愛を、
この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。
☆
神様の愛
神様の愛は、描くことも、触ることも、
表現することもできません。
そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。
神様の愛は、我々人間としては、
理解しにくいからです。
また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。
神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、
依然として全く同じです。
神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、
水があふれ出てくるように、
休まずに与え続けてわき出しているのです。
神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、
嫌がる者はなく、受けて、また受けても
腹いっぱいになった者はなく、
もっと空腹な者のようになり、謙遜になります。
神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、
我々人間に対して無限の快適な姿で変化しています。
☆
神様の愛は、全世界(全人類)が受けて、
そのすべてを神様にお返しするとしても、
神様の愛のかさがもっと大きいのです。
では、神様が人間を愛されるその愛の尺度が、
どのように表現されるでしょうか。
神様は、目に見えず、触れることすらできません。
そして、限定的な物体でも、ある固体の塊でもありません。
ところで、人間は、神様の愛をどのように表現し、
何で悟るのでしょうか?
☆
「李相軒を愛される神様」を分析しようと思います。
その時、「李相軒」と呼ばれました。
明らかに、私の耳に声が聞こえました。
まばゆく明るい光が、私の前後に、
私の頭の上に放たれて照り返されます。
その光の中で、不明の光の筋が私の心を捉えますが、
それは表現することができません。
私の能力では到底、表現しうるすべがありません。
似たように表現するなら、まるで母の胸に
うずくまった赤ん坊が、母の心臓の鼓動を聞きながら、
母の目と視線が合うときに持つ平穏感
とでもいったらよいでしょうか。
これは、到底比喩にならないことですが、
そのようにいうしかありません。
また、呼ばれる音声の変化によって、
その美しい光彩も変わりますが、
ただ全身が溶け出すような恍惚感(こうこつかん)です。
突然、瞬間的に、自分一人で立っています。
明らかに神様が見えないからです。
このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、
人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。
光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。
大きな火、小さな火、丸々とした火、
まるで地上で見た花火の光景のように輝く、
燦爛(さんらん)とした光がいろいろな光彩になって、
人間に愛の光として現れますが、
その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。
私が体験したこと以外に、
他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、
依然として神様は愛の本体であられました。
李相軒(1914〜1997)(光言社刊
『霊界の実相と地上生活』【霊界の様相編】より)
第一部 霊界の実相と地上生活
第二章 霊界で見た暮らしと地上生活
九 神様の愛の形態
霊界の実相と地上生活(14)
神様の愛の形態@
blessed lifeより
『霊界の実相と地上生活』【霊界の様相編】より)
第一部 霊界の実相と地上生活
第二章 霊界で見た暮らしと地上生活
九 神様の愛の形態
霊界の実相と地上生活(14)
神様の愛の形態@
blessed lifeより
☆
一言、名前を呼ばれただけで、
恍惚感にひたる
神様の愛に関して、李相軒先生ご自身が、
体恤された世界を、文章に表してくださいました。
神様は霊界でも見ることができない、ということですが、
おそらく、このみ言が紹介された後、
神様は、真の父母様の姿で現れる、
というみ言がありました。
今は、お父様が霊界におられますから、
どのようになっているのでしょうか。。。
人間は堕落しなければ、
神様を知的に理解して信じるというのでなく、
幼いころから、神様の愛を感じているので、
理屈ではなく、心で感じ取ることができるといいます。
神様の愛を受けるに足る私となることができるよう、
やはり、天心修行を通じて、
クリスタル以上に清い『私』を
目指していかなければ、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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