金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、章の〆、「不平不満を乗り越える」です。
☆
不平不満を乗り越えるには、どうしたらいいでしょうか。
さっきもお話ししたごとく、リーダーが良くない、
アベルが悪いと言うのは、自分がアベルの前に、
神の前に、カインの立場として
それほどに悪いということを知らせるものです。
そうせずに、アベルをもっと助け、
感謝の心で行くならば、
その人はアベルのアベルになりうるのです。
☆
この国が非常に悪いというときには、
先生はいつも、もっともっと熱心に
尽くしていかなければいけないと考えるのです。
こういう先生を神はどう考えておられるかといえば、
「お前はよくやったよ。
私が悪いんだよ。
私が悪いのであって、お前はよくやったよ」
と、そのように考えるのです。
ですから神は先生の言うことをすべて信じて
先生を立てていかれるのです。
神は、先生の中にいつも一緒におられます。
メシヤが実体の神として来られるというのは、
そういうことなのです。
堕落しない完成したアダムとは、そういう方をいうのです。
☆
そういうことを考える時に、先生と心情一体化していく
お母様は、いかに難しい立場かを考えてみてください。
女性が男性についていくのは、そんなにたやすいことではありません。
主体者が大きければ大きいほど、世界的になればなるほど、
相対者もそれぐらいに難しいということです。
ですから先生御夫妻の生活が
どれくらい難しいか理解できるでしょう。
例えばナショナル・リーダーの奥さんは、
ナショナル・リーダーと同じくらい難しい立場にいるものです。
メンバーの奥さんではなく、リーダーの奥さんなのです。
そのナショナル・リーダーに対して
文句を言ったら引っ掛かりますよ。
神が喜びません。
そういう責任をもつ人は憎みたいという心があっても、
それはできないのです。
メンバーはできても、責任のある立場に
立っている者にはそれができません。
メンバーが誤ったのと、リーダーが誤ったのとは違うのです。
十名のリーダーであれば、十名の過ちとして計算するのです。
ですから、責任をもつ人が何かできなかったとすると、
その責任が大きいゆえに、しかられるのも大きいのです。
☆
先生のお話に深く入ってまいりますと、
「これは本当に難しくて、何もできないなあ、
何の身動きもできないなあ」という考えになるでしょう。
だから、これから先生の深い話は避けたいと思います。
なぜならば、私たちは分かったならば、
やらなければいけないからです。
だから先生はなるべくその人が受け入れることのできる範囲で話して、
引き上げて導いてくれるのです。
深い話を聞いても、できないから
私たちはダウンしてしまいます。
それで、先生はなるべく御自分の話をしないようにされます。
その心情が分かりますか。
私たちを愛するから、話したくないということなのです。
統一教会は法律を作りませんでした。
法は人を救うところに目的があります。
ところが法を作ったら、それを守れない人は
どんどん罪を犯していくのです。
法を作らなければ引っかからないのに、
法を作ることによって罪人が出てくるのです。
先生は、法も三段階にすると言われます。
先生のそういう心情と事情が分かることによって、
皆様もメンバーに対して、リーダーに対して、
世の中の人に対して、どういうふうに
していかなければならないかが分かってくるのです。
平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「不平不満を乗り越える」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第三章 興南監獄での伝道
「不平不満を乗り越える」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
神様の代身として、
すべてに責任を持たれる真のお父様。
悪いことを批判して終わるのではなく、
ご自身の責任として、受け止められるというのは、
本当に素晴らしいですね。
また金元弼先生は、真のお母様のことも証しておられますが、
お側で見てこられているからこそ、
その大変さ、素晴らしさがわかるのだと思います。
「私たちがそれに耐えられないから」
すべてを語ることのできない真の父母様でした。
弟子の立場で、金元弼先生が語ってくださっているのは
本当に感謝です。
それでもすべてではないでしょう。
私たちが悟っていくべきものだと思うのです。
私に与えられた人間関係の中で、
何か、問題が起こった時にも、
その人の問題、責任、と捉える前に、
「私の責任」と受け止めていく、
そのことによって、きっと導かれるものがあることでしょう。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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