李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「幸運な者、ヨセフ」を3回に分けて
紹介します。
☆
創造の初めに生命の主人であられ、創造主でいらっしゃる神は、
人間と共に暮らしたいと願われましたが、
人間の不信により、創造主としての関係を
もつことができませんでした。
それで、どのようにすれば人間と関係をもち、
神の本来の創造のみ旨を地上に実現することができるか
というところに目的をおいて、
再び人に対して摂理をしてこられたのです。
アダムの家庭、ノアの家庭、アブラハムの家庭、
ヤコブの家庭など、数多い復帰摂理の担当者たちを通して、
神が人間と共に暮らしたいと願ってこられた
姿を読み取ることができます。
そこには、父母なる神が、子女を探して
こなければならなかった切ない事情と、
意思と、願いを、繰り返し繰り返し、
見せてくださっています。
今日、最も大きな問題は、
「私個人はどのように神と共にあり、
どのようにすれば神に所有され、
どのようにすれば神の計画が私を通して
成就するのか」ということです。
今日まで、人間の無知と不信は神のみ旨を遮る
要素となってきました。
しかしノアは神様に従順に従うことによって
分立の審判を下すことができるようにしたのであり、
アブラハムは神が所有できる者として、
神と一体となることによって信仰の祖先として
あがめられる条件を立てることができたのであり、
ヤコブも義と機知でもって、
神が共にいることのできる路程を歩むことができました。
この時間は、神がヨセフと共におられるようになった
内容を知ることによって、どのようにすれば私個人や家庭が、
あるいは私のしている仕事が神の所有となり得るのか、
どのようにすれば神が共にいてくださるのか
ということを調べてみることにしましょう。
☆
僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ
自分が神のものになり、自分が神の仕事を代行する
ということが、即、今日私たちが従事している
家庭教会運動です。
そのように考えた場合、神が私たちと共におり、
そのお方が私たちを所有することのできる
心の姿勢をいかにしてもつかということが、
至って重要であろうと思います。
☆
先ほど拝読した聖書の句には
「幸運な者、ヨセフ」という言葉がありました。
神がヨセフと共におられるので、どこに行っても
幸運であったという話が記録されています。
ヨセフは、子供を授かることができずに悲しんでいた
ラケルの息子として生まれました。
母親のラケルは「神が子供のいない私の恥を
すすいでくださった」と言って、
その子の名をヨセフと名づけました。
ヨセフの誕生は両親の嘆きをぬぐい去ってあげることになり、
また父ヤコブと母ラケルの関係を取り戻し、
神とラケルの関係をより近づける契機となりました。
その反面、ヨセフが父母の愛を独占するようになると、
腹違いの兄弟たちからのけものにされるようになり、
彼の将来には険悪な兆しが見え始めました。
かわいい弟が生まれたと家中に喜びがあふれるのではなく、
ヨセフと他の兄弟たちとの間には、ひびが入ったのです。
ヨセフの路程を見ると、幸運ではなく
不運によってのみ連結されています。
ある日のこと、パンを運んでくる
ヨセフを殺そうと兄たちは謀議しました。
兄たちはヨセフを殺して穴に投げ入れ、
父親には、「悪い獣が彼を食べた」
と言おうと計略を立てたのです。
しかし、ユダの提案で死を免れたヨセフは、
イシマエルびとの商人に銀二十シケルで売り渡され、
エジプトに行くことになりました。
☆
それ以前にヨセフは、父母と兄たちの前で
預言的な夢の話をしています。
ヨセフが「私たちが畑の中で束を結わえていたとき、
私の束が起きて立つと、あなた方の束が回りに来て、
私の束を拝みました」と言うと、
兄たちはますます彼を憎むようになりました。
また、「私はまた夢を見ました。
日と月と十一の星とが私を拝みました」
という夢の話を父と兄弟たちに語ったので、
父は彼をとがめました。
このような夢を通してヨセフは、
自分も知らないうちに家族に対して預言を語っていたのです。
この夢が、その家族とヨセフの将来を予言
していることは、だれも知らなかったのです。
☆
その後、ヨセフが侍衛長ポテパルの家に
売られていき、僕として仕えることになったのです。
ポテパルの家は、哀れな境遇におかれたヨセフによって、
祝福されるようになりました。
ヨセフの言うとおりにすると、すべての所有物が
増えていったので、主人は家事万端を
ヨセフに任せるようになりました。
ポテパルがヨセフを見て、
「主が彼とともにおられることと、
主が彼の手のすることをすべて栄えさせるのを見た」
ということを告白したのを見ると、
ポテパルの家が栄えていく事実を通して、
神がヨセフと共におられることを証させたのです。
父母の愛の中で育ってきたヨセフでしたが、
エジプトの地で僕として仕えなくてはならない
悲痛な状態にあっても、自分の事情を前に出すことなく、
その家を神が祝福してくださるように仕えました。
普通は、いかなる人でも自分が不幸に陥ったときには、
人のために尽くす余裕などありません。
しかし、ヨセフはその不幸を不幸として受けるのでなく、
「このようなことを通してこそ天が約束したみ言が成就する」
という希望を抱くことによって、
逆境を乗り越えることができました。
ヨセフは、自分の苦しみを宿命として考えました。
ポテパルの家で、「この苦しみを自分の責任として
負わせることによって、神が共におられることを
証させようとしているのだろう」と考えたに違いありません。
(『牧会』一九七九年秋号より翻訳転載)
14・幸運な者、ヨセフ
「僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
14・幸運な者、ヨセフ
「僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
「不幸に陥ったとき、人のために尽くす」
ヨセフは、神様からこのみ言を聞いて、
励ましを受けて、苦難を乗り越えたのでしょうか。
そうではなかったと思います。
おそらく、自分でこの信念をもって、
神様とともに乗り越えていったのでしょう。
また、神様がともにある、ということを
厳しい試練の時ほど、信じ、意識する中で、
心情的恩恵を受けて、乗り越えていったと思います。
ヨセフの歩みは、み旨の中で、困難を受けた時、
私たちを励ましてくださる、貴いメッセージです。
ありがとうございます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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