2022年06月19日

─祈れないときに─ どこにいても祈祷はできる 非公式版、父の祈り 《金元弼先生》

〜父の日に寄せて〜



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金元弼先生(ウォンピル)のみ言。
今回は、「神に仕える者の祈り」です。


皆さん、人によって静かな所でお祈りができる人もあれば、
動きながら働きながらお祈りをする人もいます。

人によって色々違うだろうと思います。
動きながらお祈りする人もいれば、
目をつむっては何もできないから、
目を開けてお祈りする人もいるのです。

では皆さんの中で、決まった静かな所で
お祈りがよくできる人は手を挙げてください。
大部分ですね。

そういう所ではなかなかお祈りができず、
仕事をしながらの方がよくできる人はいますか。
少ないですね。

また祈り始めたら終わりまで祈りがきちんとできる人と、
途中で切れる人、長い人と短い人がいます。

その次、お祈りがよくできる人と瞑想がよくできる人もいます。
お祈りをするとき、涙が出るときと出ないときと、どっちが多いのですか。


先生(真のお父様)は、御存じのとおり、
ある問題を解決するために、まずお祈りをされます。

先生はすべてを行いながら、
同時にお祈りも兼ねておられるということを分かってほしいと思います。

また、先生は時々過激な運動をしながらお祈りをされると、
お母様からお聞きしました。

お祈りをしようとすると、眠りが来てできないときがあります。
そういうときには、かえって動くことがいいのです。

お祈りといったら、ある所を決めて、
そこでお祈りするのがお祈りだと考えている人がいるかもしれませんけれども、
女の人でしたら、台所で働きながらお祈りすることもできれば、
バスの中でもできるし、どこでもできるのです。


皆さんは、十二時に寝て六時に起きるとしたら、
十二時から六時までぶっ通して寝ます。
十二時に寝て、途中で起きてお祈りするということはなかなかしません。

先生は、「寝る前神様に、
『私にはまだなさなければならない復帰の摂理が多くあるにもかかわらず、
これから休まなければなりません。このような私をお許しください』
とお祈りして休む」とおっしゃいました。

先生はいつでも、「これから寝るんだ」という心では寝られないのです。
また、寝ていても安らかではないのです。
寝ていても、パッと起きてまたお祈りをされます。
そうしていつの間にか寝てしまうのです。

先生は、お祈りしているのに寝ているのです。
疲れておられますから、お祈りしようとすると、
霊界は先生を寝かせてあげるというのです。


子供が勉強していて、疲れて机の上で寝ているのを
親が見たらどうしてあげますか。

子供を抱いて、ベッドの上に寝かせてあげます。
そのとき、勉強を熱心にしていて寝てしまった子供を、
ベッドに寝かせる親の心はどんなでしょうか。

「我が子は偉い。
立派になるんだ。
だから私が保護してあげなければいけないなあ」
という心が出てくるのです。

神が先生を寝かせてあげるとき、
その気持ちはそれと同じなのです。


「これから私は眠る」と思って寝る時には、
ぐっすり眠ることができますけれども、
「寝る時間ではない」と思った時には、
とても短い眠りになります。

ですから先生は何回も起きてはお祈りして、
また寝て、起きて、寝てという生活をなさるのです。
それは、「私は寝てはいけない」という心でいっぱいだからです。

ですから先生は寝巻きにすっかり着替えて寝るということがないのです。
上着を脱いで、そのままベッドの上で寝ることがよくあるのです。


私は、最初先生からみ言を聞いて恵みを受けていた時は、
なかなかお祈りができませんでした。
どのようにお祈りしてよいのか分かりませんでした。

ただみ言に感動した時から、
家に帰ったり、学校へ行ったり、教会に行ったりする中で、
いつもみ言が私の心から離れませんでした。

それで歩きながら動きながらお祈りしました。
心情に触れて泣きながら歩きました。
自分の事務所の机で仕事をしながらも、祈ることができました。

しかし大勢の人たちが、教会で徹夜しながらお祈りしていました。
私はどうしてお祈りができないのだろう、と疑ったことがあります。

ある時、「動きながら祈るのも祈りだ」
と言われて、非常に安心しました。


ですから忙しい時には、神は
「お前はトイレに入っても祈るつもりだね。
それでも汚くないよ。
私はお前がこういう所でお祈りするのが気持ちいいんだ」
と言われるのではないかと思います。

私はよくバスの中でお祈りします。
トイレに座ってもよく祈ります。
考える時間があるからです。
歩きながらもよく祈れます。

私自身はいつもこんなことを考えるのです。
バスの中でよく「私の誓い」を宣誓しますけれども、
その時、たくさんの人たちがこのバスを使ったでしょうが、
いったい誰が「私の誓い」を宣誓しただろうかと考えるのです。

ハイドパークに行くとベンチがあります。
このベンチに座って宣誓する時には、
「今までに、ここでこういうお祈りをした人が何人いただろうか」
と考えながらするのです。

そうしたら神が喜んでお祈りを聞いてくれますから、
このベンチも喜んでくれるだろうと考えます。


先生は、時々山に登ると、岩にお座りになってお祈りされます。
するとその岩が本当に喜んでいるのを感ずると言われます。

というのは、たくさんの人たちが山に登ってきて、
たまには自分の上に座ってくれた、
しかし、その人たちは真の人でなかったから喜べなかった、というのです。

万物は真の人に主管されるのを願いますから。
ですから先生が座ってくれたことによって、
岩がこの世に存在して以来、これはどの栄光の日はないというのです。

平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「神に仕える者の祈り」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「神が先生を寝かせてあげる」
この言葉に、神様とお父様の
親子の心情圏の深さを感じさせていただきました。

神様の解放のために寝る間を惜しんで、
真を尽くされたお父様。
そのお父様のお姿に感銘して、
少しでも休ませてあげたい、
神様の親心が伝わってきます。

また、元弼先生も、
どこでも、どんな時にでも、
祈りを捧げられたといいます。

今、私たちにおいては、
もちろん、天心苑祈祷室で祈ることほど、
貴いことはないでしょう。

しかし、どんなところでも
神様に祈りを捧げること自体、
神様は喜ばれるのだと思います。

そうして、祈りが日常茶飯事となり
いつでも、神様とともにある者に
なっていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(1) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする