2022年06月22日

真の父とヨセフ、獄中でも人々を感化・・それは神が共にいたから 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「幸運な者、ヨセフ」続編です。


愛の誘惑を強硬に払いのけたヨセフ

また、その家庭を栄えさせ、家事万端を引き受けるようになり、
信仰と人格も認められる基準にまで達した途端に、
愛の試練を受けるようになったのです。

ヨセフは、主人が願うことは何でも従順に従いました。
しかし、夫人の愛の誘惑だけは強硬に払いのけました。
これが禍根となって無実の罪を着せられ、
獄中に入れられてしまったのです。

アダムとエバを天使長が誘惑したように、
ヨセフに愛の試練が訪れたとき、
この峠を彼は上手に越えることができました。

ヨセフ自身、神が自分と共におられることを知っており、
ポテパルの家でも神がヨセフと共におられることを
証したのですが、ポテパルの妻は試練を与えました。

ヨセフはそれを最後まで耐え抜いたのです。
これは、ヨセフにとっては思わぬ出来事でした。

ヨセフは神の法度に従い、ポテパルの家の僕として
仕えてはいたとしても、「天の前に恥ずべきことはできない」
という強い信条をもっていたにもかかわらず、
口惜しくも汚名を被せられたのです。

神の戒めを生命視し、自己というものがなかった
ヨセフにもこのような困難が迫ってきたように、
今日でもこのようなことがあり得るのです。

神が常にヨセフと共におられたように思えたにも
かかわらず、このような汚名を着せられたのですから、
ヨセフ自身どれほど驚いたことでしょうか。

獄中でも同僚に感動を与えたヨセフ

それと同じことが起こったとしたら、
私たちはどのようにするでしょうか。

神が私と共におられ、自分は公的な目的のために生きる
自分であると考えているにもかかわらず、
突然そのような不慮の出来事に出遭ったとしたら、
私たちの心はどうなるでしょうか。


エレミヤは、神に抗議しました。
「あなたが言われたとおりに預言をした私を、
どうしてこのように苦しめるのですか、
あなたがこのことを行わせて知らぬふりを
しているのですか」と言いながら、
悲しくて抗議の祈祷をしたことがあります。

しかし、創世記第三十九章二十節を見ると、
ヨセフは獄中にあっても一言の不平を言うこともなく、
罪人たちに憐れみと慈悲を施し、
神が共におられることを証しました。

このようにして見ると、神が人間を捨て、
さらには困難に遭遇させたときにこそ、
他人に憐れみを施すことは重要なのです。

神が愛し、神が共におられることを実感しているときに、
他人のために尽くすのはだれでもできます。
しかし、捨てられた立場で
他人のために尽くすのは難しいのです。

十字架上で怨讐のために祈祷されたイエス様は、
苦しみに出遭う人の鑑となったのであり、
獄中で苦しみを受けながらも仁慈のゆえに、
同僚たちに感動、感化を与えたヨセフは、
真の人だけがなすことのできる仕事をやり遂げたのです。


獄中でもヨセフは、ただ
「自分の行くべき道を行く」と考えたに違いありません。
この道でなければ夢をかなえることができないと、
神との誓いを忘れなかったに違いありません。

天は私を捨てても、私は天を捨てることが
できないというヨセフです。

「神はうそを言われない方であり、
神は約束を捨ててしまう方ではない」
とヨセフは信じたのです。

そうでなかったとしたら、他人のために
尽くそうとする力が出なかったはずです。

このようにして、ヨセフは困難な三つの峠を越えました。
やがてヨセフに確固とした中心が定まったとき、
神が現れて、共に働かれるということを見せてくださいました。

ヨセフに対して、ある期間までは
神が対することができなかったのですが、
ポテパルの家で休むことなく働き、
周囲の認定を受けるようになったときに、
神が対し始めました。

獄中にあっても希望をもち、
憐れみと慈悲を施したとき、神が共におられました。

ここで私たちは、
「ヨセフのように幸運な者となるためには、
苦難の道を越えずしては訪れてこない」
ということを学ばなくてはなりません。

人はだれしも、恨みに思う、
悲しい、口惜しいことがあるものです。
公的な立場で進めば、必ず汚名を着せられます。

ヨセフは、自分の家庭においても、
ポテパルの家においても、
悲しみの道を行きましたが、
その家庭とエジプトの国に幸運をもたらしたのです。

14・幸運な者、ヨセフ
「僕として仕えた家を栄えさせたヨセフ」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

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ヨセフの歩んだ道。
今の私たちにとっても、とても励みになり、
貴い歩みだと感じます。

ヨセフが受けた迫害は、困難なものでした。
神様から見捨てられるような状況なのに、
それでもために生き続けた歩みは、
まさに真の父母様が歩まれた道、そのものです。

実際、真のお父様は、ヨセフ路程をとても研究され、
参考にされたと聞いたことがあります。

また、真のお父様がいくたびもの獄中生活を、
越えていくことができたのは、
風や虫やホコリの中にでも、神様の
創造の妙味を感じることができたからだとも
おっしゃっています。

常に親なる神様(天の父母様)と共に
おられた真の父母様であり、
ヨセフもそうであったのでしょう。

困難な時に、心が弱くなることがあります。
しかし、そういう時ほど、ヨセフを思い出し、
乗り越えていきたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 10:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする