史吉子(サ キルジャ)先生のみ言、
「神様の両面性」のつづきです。
☆
神様の両面性
(お父様(文鮮明師)は、誰よりも深く
神様について研究されされた結果、
神様は全く別のように見える両面性、すなわち、
相対性の神様(つまり愛の神様)と、
数理性の神様としておられますと言うことに気づかれました。)
「愛」と言うのは何か?
怨讐まで自然屈服させることです。
どうして、そうなのか?
「怨讐」とは、自分に過ちを犯した人のことではないですか?
しかし、怨讐のために生き、
愛を与え続けたら、怨讐が感動して
身動きもできず、屈服するのです。
自然屈服すると言うことです。
☆
ところでアメリカのキリスト教は、
「愛の神様」ではなく、「力の神様」 として信じて来ました。
力の神様とは何か?
暴力で自身の目的を成そうとすることです。
それは「強制屈服」です。
ですから、「自然屈服」ではありません。
アメリカ建国初期に、キリスト教徒が
平和に暮していたインディアン (ネイティブアメリカン)に対して、
キリスト教徒ではないと言って追い出しました。
そうせずに神様の愛で尽くして奉仕してあげたら、
インディアンがアメリカ人の言うことを聞いたでしょう。
「ああ、皆さんが信じている神様は、とてもいい方ですね、
私たちも一緒に信じたいです。」と 言ったでしょう。
ところが、アメリカのキリスト教はそれができなかったのです。
お父様は私たちに、愛の神様、
完全に犠牲と奉仕で怨讐までも自然屈服させる
方法を、原理で教えてくださいました。
☆
では、「数理性の神様」と言う言葉の意味は何か?
原理には 12、4、 21、40数が出て来ます。
アダムとエバの成長期間に数理的な摂理が出て来ます。
ところが、アダムとエバが完成できなかったために、
復帰摂理に数理的な摂理が再び出て来ます。
なぜかと言うと、復帰摂理は再創造摂理であるからです。
それで、この数を中心とした摂理は変動がありません。
12が13になることはないし、4が5になることはありません。
勝手に変動させることができません。
きっちりと決められた秩序を言うのです。
結局、数理性の神様とは、秩序の神様のことを言います。
☆
それでは、秩序の神様とはどんな神様か?
科学の神様です。
普通、この世の全ての宗教家やキリスト教徒の
頭の中の神様は、とてつもない奇跡を起こされ、
無限の霊的能力を発揮されるので、
科学は神様とは関係が無いと思っていますが、
とんでもないことです。
神様は、まさに科学の根本であられます。
神様が天地の万物、太陽と月と天体を創られた時、
秩序 (科学)を無視して勝手気ままに創られたとしたら、
どうなったでしょうか?
全てぶつかって、壊れてしまったでしょう。
ところが、天体は秩序的に一定の軌道を回っています。
このように科学の根本は、まさに神様であられるのです。
☆
お父様は、愛の神様と科学の神様を全て発見されてから、
どちらをもっと研究してみようかと考えられました。
お父様は愛の神様については既に霊的によくご存知で、
実際に愛の実践と奉仕をたくさんされたので、
科学の神様の方をもっと勉強しなければと考えられたのです。
電気は、プラス(+)とマイナス(-)が
授受作用をして初めて発生します。
だから、授受作用を説明する時どんなに良いでしょうか?
科学にも多くの様々な分野がありますが、
原理と神様の愛を説明する時、
電気の作用で説明するのが適切なので、
お父様は電気工学を専攻されました。
☆
私たちの原理には、愛の神様と
科学の神様についての内容が入っており、
自然科学から聖書、神学、
哲学、文学、全てが総合的に入っています。
このように、原理は全てを総括することのできる、
本当に根本となる真理なのです。
それで人々が原理を学ぶとどうですか?
全ての人が、何も言えずに従わざるを得ません。
史吉子
『原理によるみ言の証』
『原理によるみ言の証』
☆
神様の存在様相をすべて
証ししてくださったお父様。
特に人類の父母である、ということ。
そのことを証しされた時、
神様はどれほど喜ばれただろうか、と思います。
ですから、神様の似姿として存在する人類は、
みな真の父母になるべき存在です。
自分たちの姿を見ると、全然その基準には
至っていないと思いますが、
本来はそうあるべきでした。
真の父母様がその道を行ってくださり、
示してくださっていますから、
私たちもあきらめずに、
真の父母になるべく、天寶修行、
天心修行の道を歩んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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