2022年07月24日

しばらくお休みいたします。








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posted by ten1ko2 at 07:00 | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月23日

大地を踏んで、お母様を感じたことがありますか?! 雪山での体験 《金元弼先生》




200725-19720915.jpg


金元弼のみ言。
「先生のような生活をするために」です。

先生のような生活をするために

私が巡回していたときのことでした。

「どうしたら、先生のような生活ができるのだろうか」
という考えで、胸がいっぱいでした。

韓国で、非常に奥深く高い山を
冬に越えなければならなかったことがありました。
誰も人がいないのに、雪が真っ白く降る中を一人で歩いていました。

その時、天は父を象徴し、地は母を象徴するという
原理のみ言を、ふと思い出しました。

私は今この地を踏んでいるから、
お母様の体を踏んでいるのだと考えました。
そう思うと“痛い”のです。

それで、そおっと歩いたのです。
そしたら本当に体を踏んでいるような気持ちがしてくるのです。

一歩を踏む時に、
「私は親のために孝行します、
 忠節を尽くします、
 貞節を守ります」という心持ちです。

白い雪の上に誓いながら行くのです。
雪の上に字を一つ書いて、また書いて、
忠なら忠を、孝なら孝を足で書きながら歩みます。

このことが、私には非常に強く心に残りました。

 
韓国には、本当に親孝行な子供がいました。

親がなくなって三年間、毎日のごとく
親の霊魂を慰めるために、墓の所まで行ってお祈りをしたのです。
それで墓まで通った道と祈った場所には、
芝生が生えませんでした。

私たちが神に、真の父母にそのように
心を尽くして侍らないならば、
「私は親にさえもこんなにしたのに、
あなたたちは真の父母と神が分かっていながら、
なぜできなかったのですか」と問われることになるでしょう。


先生は神に侍るに当たり、どのようにされたのでしょうか。

世の中には、国のために忠義を尽くした人たちがたくさんいます。
その人たちが「あなたには及びもしません」
という先生になるために、
どういう道を歩まなければならなかったのでしょうか。

神の国を建設するに当たっても、国のために、
世界のために尽くした以上に、神の国のために、
神の世界をつくるために心を尽くさなければならないのが、
先生の基準なのです。

もしそうしなければ、イエス様、お釈迦様、マホメット、
いろんな聖人あるいは神のために尽くした王様、
忠節を尽くした親孝行者たちに先生は訴えられるのです。

ですから、国のために尽くした最高の人は誰だろうと
いつも考えながら、この国をそれ以上に愛する
という条件をお立てになるのです。

 
そこで先生が三六〇軒を訪問するに当たって
私に教えてくださったことは、その三六〇軒のために
尽くした人々がおり、先祖たちがいたのだから、
その人たち以上の心で、その区域を愛し
真心を尽くしていかなければならないということでした。

例えば、熱心なイスラム教徒がいるとしましょう。
その人以上に神を愛したとするならば、
イスラム教の先祖の霊たちが
私を助けてくれるということなのです。

平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「先生のような生活をするために」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


日常生活の中で、侍る生活の重要性を教えていただきました。
私の一挙手一投足は、何のためにあるのか、
そのことを深く考えさせられます。

自分のために生きる人生より、
ほかのために生きる人生の方が価値があり、
喜びの度合いも変わっていきます。

その究極が神様、真の父母様のためであり、
国と世界のためであるのでしょう。

小さな歩みであったとしても、
どんな心情、どんな思いで歩むのかが、
とても重要であると思うのです。




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2022年07月22日

「ありがとう」を言えば幸せがやってくる、悪口を言うと・・・?! 《浅川先生》




180611.jpg


浅川先生の講話より、
「言葉で愛する」です。

言葉で愛する

神様は人間に言葉を与えてくださいました。

では、何のために言葉を語るのでしょうか。
それは、隣人と家族を幸福にするためです。
神様は、愛するために言葉を与えてくださったのです。

食べるためだけなら、口があればよく、言葉は必要ありません。
犬や猫は言葉が語れなくても食べて生きています。


それゆえ、愛ある言葉、美しい言葉のみを語るべきなのです。
人が聞いて幸福な気分になる言葉のみを語るべきなのです。

文鮮明先生は、

「愛の心、真実をもって接しなければなりません。
 話をするにしても、一日に良い言葉を
 三回ずつ継続して言ってみてください」


(『愛天愛人愛国』59ページ)
と言われています。

 
ところで、良い言葉を三回どころか、
何千回も唱えて幸福になったおばあさんがいました。

そのおばあさんは毎日、「自分ほど不幸な人はいない」
と愚痴をこぼしていました。

「同じ町内に嫁と孫が住んでいながら、一度も
自分の家に訪ねてきてくれたことがない」と嘆いていたのです。
そのため、毎日、嫁の悪口を言い続けていたのです。

ところが、ある時、
「こんなことをしていてもどうしょうもない。
むしろありがとう、と言い続けてみよう」
と思ったそうです。

それで、朝起きてから
「ありがとう、ありがとう」と言い続けたそうです。

すると、奇跡が起こったというのです。
一日千回言ったとき、一人の孫が訪ねて来たのです。

おばあさんは感動して、こう思ったそうです。
「ありがとう千回で孫一人。
そんならもっと回数を増やしたら、ひょっとして……」。

それから一日三千回以上唱えたそうです。
驚いたことに、孫三人と嫁まで訪ねてきて、しかも、
おばあさんへのお小遣いがベースアップしたそうです。

それで孫にプレゼントができるようになったそうです。
今では、何万回も唱えているそうです。


「ありがとう」という言葉は
不幸な時ほど効き目(?)がありそうです。
不幸な時に感謝できる人は天国人というべきです。

しかし、なかには、言葉を使って不幸になる人もいます。
ひょっとすると、大半の人がそうかもしれません。

文鮮明先生は言葉の恐ろしさについて語られています。

 
「もし言葉を一言間違えれば、
 その言葉を言った人も苦痛を受け、
 その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです」


(『愛天愛人愛国』61ページ)



ひとたび口から出た悪い言葉は、もはやその人の所有物ではなく、
悪魔の所有物となり、不幸のために活用されるのです。

そのため、悪い言葉や陰口を語った人が
まず不幸になるというのです。

ゴミは市が回収してくれますが、
悪口という見えないゴミは回収してくれません。
悪口の回収日などないのです。

生ゴミが悪臭を放つように、
悪口は悪霊を解き放つのです。

悪口は不幸の種まきになるのです。
しかも、直ちに不幸な出来事を実らせます。

神様が幸福のために与えてくださった言葉で
不幸になるほど愚かなことはありません。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第四章】愛天愛人愛国愛人─人を愛する生活
言葉で愛する


「ありがとう千回で孫一人」
興味深い証しですね。

反対に、「口は禍の元」、という言葉もあります。

政治家など、ちょっとした言葉の表現で、
言質を取られ、やり玉にあげられています。
批判する人たちほど、
そういう言葉に敏感なのかもしれません。

他の動機で言っているのに、
言葉のみで判断されてしまうこともあるでしょう。

言葉の背後には、「思い」があります。
だから、言葉を受け取ることは、
思いを受け取ることと同じだと思うのです。

良い言葉の背後には良い思いがありますが、
悪い言葉の背後には、
悪なる思いがあるということになります。

悪い言葉は、言われた方だけでなく、
言った側にもダメージがあるとのこと。

「悪口のゴミは、回収不可能」
肝に銘じていかないといけないですね。
言ってしまったものは取り消せないのです。

今はあらゆるメディア、ネットでも
拡散できますから、社会にもゴミがあふれる
ことになってしまいますね。

悪口の習慣がついている人は、
ずっとごみの中にいるということでしょうか。

「いつも笑顔でいなさい。
感謝していなさい」と言われるように、
それを習慣づけることで
「ありがとう」という言葉が
自然に口から出てくるのかもしれません。

さらに意識して賛辞や
「ありがとう」などの
素晴らしい言葉を発していきたいと思います。




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