2022年07月21日

主を「死の収容所」に送られたのは、天が生かすためだった! 《史吉子先生》




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玉世賢ハルモニ☆


史吉子(サ キルジャ)先生のみ言より、
「お父様が興南の監獄に行かれるようになった揭理的意義」です。


お父様が興南の監獄に行かれるようになった揭理的意義

お父様は共産主義と民主主義を比較してみた時に、
共産主義に比べて民主主義が、更にお父様を批判して苦しめたけれど、
ただ一つだけ、功労があると言われました。

何の功労かと言うと、メシヤを殺害しなかったと言う功労だそうです。
なぜかと言うと、北朝鮮にお父様が長くおられたら、
彼らは間違いなくお父様を殺害していたからです。

その時、神様がどれほど事を急がれたでしょうか?
それで6.25動乱(朝鮮戦争)を勃発させ、
国連とアメリカをして飛行機で爆弾を落とさせたのです。

6.25動乱は、誰のために起こったか知っていますか?
お父様のために起こったのです。


既に亡くなられた玉世賢(オク セヒョン)ハルモニに関連した、
有名な逸話があります。

玉世賢ハルモニは、お父様が平壌にいらした頃から
待っておられた方なのですが、
周囲のキリスト教信者が玉世賢ハルモニをあざ笑いました。

聖書を見ると、監獄にいたペテロを天使が導き出した
と言う内容が出て来ます。
その時は天使が監獄の看守の目を眩ませて、
ペテロを導き出しました。

これを知っているキリスト教信者が、
「おまえたちの文先生が再臨主だったら、
なぜ獄中から出てくる能力も無いのか?」
と言いながらあざ笑うのですから、
ハルモニはどれ程、口惜しかったでしょう?

それでわあわあ泣きながら、
「天のお父様! 私たちの先生を
獄中から出してください。」と祈ったそうです。

即座に神様が現れて、大声で叱りつけられながら、
「おい、成し遂げてやれない祈祷はするんじゃない!」
とおっしゃったそうです。

神様は、「平壌でおまえたちの先生の命を、
誰が守ってあげられるのか。
私がおまえたちの先生の命を守ってやろうと、
獄中に入れておいた。
獄中が外よりましだ。
獄中にいなければ、既成教会の信者と共産主義者が、
おまえたちの先生を殺す!」と言われたそうです。


イエス様を誰が殺しましたか?

ローマ人と彼を反対するユダヤ人が
(イエス様を殺したように、)
「文先生は悪い。文先生は悪い。」と言いながら、
韓国から上がってきたスパイだと罪を着せると、
北朝鮮の共産主義者がお父様を殺害するに決まっています。

それ故、到底だめだと判断なされたので、
神様がお父様を監獄に送られたのです。

そうしておいて、神様は6.25動乱の間は、
お父様を生かされたのです。

知ってみると、韓国の歴史はお父様のために動いているのです。
わたしたちはそれを知っていますが、
世間の人たちは知らないでいます。

史吉子
『原理によるみ言の証』より


逆転の発想というか・・・
神様ならではの救いの摂理だったのですね。

共産主義は一党独裁になり、一歩間違えれば、
恐ろしい団体になりますが、そうではない例もありますね。

例えば、カンボジアも共産党です。
フンセン首相は長い間、政権を握っておりますが、
家庭連合の活動に好意的であり、
さまざまな分野で協力しています。

神様はどのような形でどのような人を用いるか、
まったくわからない、と思います。

昨日の敵は、今日の友、ということわざもあります。
偏見で物事を見つめないように、
天の視点で見つめていきたいと思うのです。


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2022年07月20日

天国では、お祖父ちゃんも孫も20代の若者、みな兄弟 《浅川先生“天活”のすゝめ》





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浅川先生「“天活”のすすめ〜天国への準備はできていますか」
今回は、『祖父母と孫との衝撃の出会い』です。


天国で、20代になったおじいさんとおばあさんが、
数歳の時に別れた孫と、天国で出会ったとき、
どうなるでしょうか。

おじいさんも孫も20代の青年です。
20代同士の青年が出会って交流するのです。

数歳の孫と別れたとき、おじいさんは、
顔にしわがあり、腰の曲がった、白髪の老人でした。
ところが、孫の目の前にいるのは、若い青年です。
全く誰か分かりません。

しかも、その青年が「おお、孫よ、孫娘よ」などと、
叫んで寄ってくるではありませんか。
よくよく話を聞いてみると、確かに、
おじいさんだと気がついて抱き合うのです。


文鮮明先生は、この感激的出会いを語られています。

「皆さんが霊界に行ってみれば、地上で生きた
 皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。
 なぜなら、そのおじいさんとお父さんが、
 若くてすてきな姿に変わっているからです。
 年老いた姿ではありません。

 若いおじいさんだから、初めは見分けられないけれども、
 話をしてみれば、徐々に分かり、
『そうだ、それは合っている。
 私のおじいさんだ』と言って抱き締めるのです」

 
そして、お父さんは霊界に行けば、お父さんというのではなく、
お兄さんと呼ぶようになっているというのです。
お母さんも、お母さんと呼ぶようになっていないというのです。

こうして、霊界の天国では祖父母、父母、孫が
互いに兄弟姉妹のようになり、
神様を父母として、家族のようになるのです。

家族みんなが神様を「父母」と呼びます。
神様は、すべての人間にとって父母になられる方です。

ですから、神様は人間にとって父母になり、
人間はお互いに兄弟姉妹のようになるのです。

しかも、生前、重病で寝たきりであったとしても、
元気な凛々(りり)しい青年になっています。

天国には病人はいません。
障害者もいません。
足の不自由な人、病を患っていた人も、
肉身を脱げばいかなる障害もありません。

浅川勇男・著
第三章 天国は永遠の青春時代
祖父母と孫との衝撃の出会い
“天活”のすすめ〜天国への準備はできていますか 13


親も祖父母も先祖の皆様方も、
霊界では、若い姿である、
何とも興味深いですね。

何というか、先祖の人たちに会うのが、
ちょっとした、楽しみに思えてきました。

また、障がい者の方、病気を患った人も
霊界では、健康な状態だといいます。

ただ、問題なのが、私の『心』です。
厳密に言えば、霊人体を成長させ、
完成させるかが、問題である、というのです。

どんな心持ちなのか、
それが重要であることを思うと、
神様の愛、真の愛を体恤する人生を
いかに送ることができるか、
そのことを意識して歩んでいかなければ、
と思わされるのです。

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2022年07月19日

理不尽なことが起こるとき 十字架…この苦痛は、神の愛! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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李ヨハネ先生のみ言「苦痛の中での信従」より、 
今回は、『苦痛は神の愛である』です。
    

苦痛は祝福であり、苦痛は神様の愛です。

また、苦痛は神様の秘密が伝達されるみ業でもあり、
私たちはこの苦痛をまず私の個体から探し出さねばならないのですが、
その私の苦痛とはいったい何かというならば、
それは善悪の戦いにほかなりません。

すなわち、み言を通して知った苦痛を
正しく把握できる人こそ、
真の意味で自己の十字架を尋ねあてる人です。

私たちにとって十字架とは何かというと、
衣食住や貧困、病気等は、一般の人々も経験していることであり、
これらの中で何かを発見したとしても、
それは十字架とはいえないでしょう。

私たちの血統の中には、今堕落性が渦を巻いていますが、
何が私の本性の怨讐であり、何が私たちの平和を遮るものか、
その堕落性の根源を正しく探求し、それをつかみ得た人こそが、
自己の十字架を発見した人です。

自己の十字架を正しく負えないがために、
多くの人々が五里霧中の苦しみを受け、
その苦痛の代価を贖いきれず、生命の復活もできないまま、
ただ歳月を空しく送っている事実を否定することはできません。

 
二番目は、言葉の本質ということです。

神様は言葉で創造の業をなしましたが、
その対象が堕落したのです。

ですから、愛の実体であるアダムの家庭を
追放しなければならなかった
神様の苦痛を知らずに語る場合です。

 
三番目は、イエス様を誕生なされた苦痛です。

ひとり子イエスをこの世に誕生させた神様の摂理は、
マリヤという処女の体を通して、イエス様を誕生させました。

このようにして誕生されたイエス様を
死へ追いやらねばならなかった神様の苦痛、
また、アブラハムが百歳近くになってやっと得た
息子のイサクを、刃で裂いて燔祭の犠牲に
供えるよう試練される神様の苦痛、
このように思いもよらぬほどの無慈悲なる出来事の、
理解に苦しむ神様の苦痛があったのです。

15・苦痛の中での信従
「苦痛は神の愛である」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


わたしたちが苦痛を感じる時、
同じ思いを持っている神様が、
ともに苦痛を感じておられる、
そのことを忘れてはならないのだと思いました。

今も、多くの痛み、苦しみを感じざるを得ません。
しかし、こういう時こそ、
神様と共に乗り越えていくのだ、
胸に刻んでいきたいと思います。

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