2022年07月18日

スズメが鳴くのはどうしてか・・・スズメが教えた自然の素晴らしさ 《自己牧会プログラム》




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忙しい日常の中で、気づかなかったこと──

自己牧会プログラムの体験談、
「スズメが教えてくれたこと」


(男性 60代)

教会の公務を退職し、清掃の仕事を始めて2年目になります。

仕事を始めた頃は、それまでとは違った
身体を使う仕事であることや、
掃除という同じ事の繰り返しに慣れず、
心情が下ることもありました。

去年の春のある朝のこと。
職場の近くの木で鳴いているスズメの声をうるさく感じました。

それだけでなく、自分を批判し、
ばかにしているようにさえ思えたのです。
 
そんな自分に気付いて、
「自分の心が屈折しているなあ!」と、
さらに落ち込みました。


その後、ネットで調べたら、ちょうどその時がスズメの繁殖期で、
人間を警戒している仕草なのだと知りました。

それからは、巣の近くを通るときは刺激しないように、
ゆっくりと静かに歩くようにし、
時間があれば立ち止まってしばらく様子を観察したり、
鳴き声に耳を傾けたりしていました。

すると、やがてスズメたちは私を警戒しなくなったのです。


そうしたら、今度は自宅や外出先、道を歩いているときなど、
至る所でスズメや鳥の鳴き声が耳に入ってくるようになりました。

今までこんなに鳴いていたのに、
どうして聞こえなかったのだろう……。

気が付かないほど忙しく公務に走っていた自分だったと思い、
気付かせてくれたスズメに感謝の思いが湧いてきました。


それからは、どこに行っても、スズメを見ると、
「ヒナは育っているか?」
「一生懸命、生きるんだよ!」
「カラスに気を付けるんだよ!」
などと語りかけるようになりました。

また鳥だけでなく、それまで気にも留めなかった
道端の花や雑草にも関心がいくようになりました。

知らない花があると、スマホアプリで名前を検索します。
名前が分かっただけで、ぐっと親しみが湧くのも不思議です。

「自己牧会プログラム」を学んで5年。
このような万物との深い共鳴圏を体験し、
ゆったりとした人生の時間を持てるようになったことに、
心から感謝しています。

私の心の中にいる神様 130
スズメが教えてくれたこと
(blessed lifeより)


心が癒される証し、ありがとうございました。

目の前のこと、周囲の雑音に気を取られると、
今、何をなすべきなのか、どんな心持ちで歩むのか、
意識が奪われてしまうことがあります。

小さなことにも目を向け、耳を傾けて、
神様のささやき、神様の思いを感じることができる
私たちになっていきたいと思うのです。



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2022年07月17日

私たちが最も愛する歌 ♪「園の歌」 主が直接聖歌指導も 《聖歌のゆかり》



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「試練の時、お父様を中心に
この歌を泣きながら徹夜して歌った」
といいます。   

書籍『聖歌のゆかり』より、
「園の歌」を紹介します。

「天国再建のみ旨を受けて、いざ、君に続け!」

この歌は統一教会の歴史に欠くことのできない歌の一つです。

「昔、異端として激しい迫害が始まったころ、
既成教会では信徒を見分けるのに、
この歌をうたうかどうか見たくらいです。

これは、もともとは讃美歌であるのに。
そのくらい私たちの歌として愛唱されたということです」
と、柳光烈先生が話しています。 


うたわれるようになったきっかけは、一九五四年四月のある日、
梨花女子大学音楽講師で梁允永(ヤンユンヨン)女史が
大学のピアノに向かって、讃美歌の本をぱらぱらとめくりながら
弾いたり、うたったりしているときのことです。

何気なくめくったページの歌詞が、
強く梁女史の目に飛び込んできました。

それは「良き歌」という本で、
讃美歌にもれた佳曲を収録したものでした。
有名な監理教会(メソジスト)の発行で、
安信永(アンシニョン)氏が編纂したようです。

梁女史は胸を躍らせてメロディーを弾き、うたってみました。
「ああ、これはまさに私たちのために用意された歌ではないか」
と、うたい進むにつれて梁女史は涙をおさえることができず、
とうとう慟哭(どうこく)してしまったということです。

(このときの速度は今のように速くはなかったようです)

一体このような霊的に高い歌を、だれが作ったのだろうかと、
作者名を見ても、そこには簡単に「南方民謡」と記されているだけでした。

急いで教会に行き、「このような素晴らしい歌を見つけました」
と紹介すると、文先生も大変感動され、
皆で何度もうたいました。

繰り返しうたううちに全員が泣きだし、
深い感動に包まれてしまったのです。


柳先生は当時を回想して次のように語っています。

「そのころ、どんなにこの歌をうたったことが。
うたいながらイエス様のことを思いました。
あんなにいじめられ槍で突かれ
十字架にまでかけられていった、その悲惨な年涯……。

このような摂理の責任を担って、
悪い時代に現れただけに、苦しみの打ち続く生涯をおくられて、
その最後もあのような十字架であった、と考えると、
イエス様がかわいそうで胸が苦しくなって、とても泣いたのです。

それはもう、声をはりあげて泣くだけ泣き、
また長い間かかって納まって自然と涙がひく。
それでもまだうたっていました。

火をつけてから燃え上がって焼き尽くし、
鎮まって灰しか残らない。
その間中、うたっていました。
何回繰り返してうたったか分からないほどです」

 
文先生が、この歌の説明をしてくださったのは一九六七年七月、
名古屋教会においてでした。

お話の合間に「うたいましょう」と言われ、
皆で「園の歌」をうたいました。
そのとき先生が次のように説明してくださったのです。

「一番は、サタンの園から
 神のみ旨にかなう園になって、主が来られた。
 その主の香りが満ち、それに対応してゆりの花は、
 六千年待ち焦がれた主がいらっしゃるからほほえむ。
 美しく咲く。

 ゆりは新婦を象徴する。
 三方の風が吹き寄せても一方にしか匂わない。
 方向性を持った香りを表す花だ。

 ゆりの花を見たら、特に女の子たちは
『あなたのようになりたい』と祈るんだよ。

 恵みのにわか雨、主が降らせたまえば、
 死んだ心情がまたよみがえって、
 見る世界、聞く世界、皆命ある、新たなものとなる。


 二番は、この渇きし地上に清い泉があふれて清める。
 私たちの体と心はウジがわき、ハエがたかり、
 むずむずするほど嫌なものだ。

 それらが清められ、よき地となり、
 六千年待ちに待った仇(あだ)を打ち、
 サタンをやっつけ、
 この世は花園──神のみ国となる。

 それは最高の願いの世界だよ。

 
 三番は、十字架の蕩減(とうげん)を逆に戻って、
 撤廃しなければならない。

 主は十字架によって来られる。
 イエス様は赤い血の十字架で、
 再臨主は白い十字架で現れるというんだね。

 その蕩減がなくなったので、万民は天国に入る。
 天国をつくるのは私たちである。

 そうするには、今までなされた苦労よりも、
 もっと苦労しなければならない。
 しかし、それは本当に勝利していくためだ。

 昔の苦労は流れてしまう苦労だ。
 蕩減のためにした苦労である。
 成約の苦労はすべて実る。
 後の栄光となるものである。

 このよき時を迎えて、天国再建のみ旨を受けて、
 いざ、君に続け!そういう意味だね」


 
もう一つ、この歌には霊的役事をされる
金信旭(キムシヌク)先生の興味深い証があります。

金信旭先生は力ある霊能者で、信念と信仰に満ちたかたです。
統一教会に来る前のある日、金先生は
霊界に入り、天使に導かれて、
黙示録に記されている生命の川のほとりを通りました。

さらに行くと、とても素晴らしい館がありました。
そこに入ると、薄い白い、美しい衣をつけた、
美しい青年男女がいて、美しい歌が流れていました。

それは例えようもない素晴らしい響きで、
あまりの心地よさに陶酔してしまい、
調べに合わせて天使たちと踊ったそうです。

その歌は神から与えられた歌として、
大切に覚えていて、思い出してはうたっていました。

それから、間もなく啓示があって、
普通なら三十分で歩ける所を
三時間かからなければ歩けないような
霊的闘いをしながら、やっと統一教会にたどりつきました。 

ちょうど礼拝中で、座っている青年男女は
皆質素な身なりをしていましたが、
霊眼で見た金先生ははっとして、
「ああ、あのときの美しい青年男女はこの人たちだ。
あの美しい館はここだ」と気づいたのです。

そして、そのとき賛美されていた
「園の歌」を聞いて、また非常に驚きました。
天使たちと共にうたい踊った、あの歌だと分かったからでした。

39 園の歌
聖歌のゆかり
光言社編より



聖歌39番 園の歌
1.
主はおのが園に来たる その香り満ちて
百合(ゆり)が咲き乱る 百合がほほえむ
恵みのにわか雨 主が降らせ給(たま)えば
死人また蘇(い)く 死人また蘇く

2.
渇(かわ)きあるこの地に 清き泉流れ
よき地となる よき地となる
君は仇(あだ)を討(う)ち この世花園(はなぞの)に
御国(みくに)となる 御国となる

3.
主を信ずるものよ この御言(みことば)受け
君に続け 君に続け
今の試練苦労も 後(あと)の栄えなり
エデンに帰れ エデンに帰れ



お父様が試練を乗り越えていかれた時を思いつつ、
私たちも、この歌を讃美して
今の時を越えていきたいと思います。




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2022年07月16日

「天に対する一片丹心だけは動揺させないでください」 *文鮮明師(主)の預言*

「大患難の時が来ても、悲しまないでください」



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今、この時、み言をもって
心情を整理していきたいと思います。

1961年に語られた
『患難の時を用意された意味』という
真のお父様(文鮮明師)のみ言を紹介します。


『患難の時を用意された意味』

神様は終わりの日になれば、
人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。

この患難時期は六千年の歴史路程において、
天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。
人間の絆がみな壊れていき、
信じられない環境にぶつかる時です。

自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、
その良心で自らの生涯を主張できない時です。
み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、
眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。

そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。

その時は、希望が揺れる時であり、
私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、
信じて従った指導者が揺れる時です。
主義はもちろん、宗教、良心、
父母の心情までもすべて揺れる時です。

では、神様はなぜそのような世の中を
つくっておかなければならないのでしょうか。
それは真の神様、歴史的に苦労した神様と
同参したという価値を与えるためです。

神様は六千年間数多くの惨状を見てきましたし、
数多くの曲折を受けられたので、
終わりの日においては良心とか、主義とか、
信仰ということをもって中心を立てることのできない
環境にぶつかるようにするのです。

そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、
そのような難しい場でも「神様と共に生きる」
と言い得る真の息子、娘を探すために、
そのような時が来るというのです。

それゆえ皆さんは、
教会が揺れるのを見て悲しむことなく、
ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、
ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、
自らの父母が変わったと悲しむことなく、
自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。

頼り、信じていた世の中のすべてが動揺しても、
皆さんの心は平然としていなければなりません。
神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられる
ということを知らなければなりません。

神様が私たちに苦痛を与えるのは、
神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を
私たちに結んでくださるための、
大きな約束であることを知らなければなりません。

そのような場で天を抱き締め、
「一緒に行きましょう。
 共に闘いましょう。
 共に行動しましょう」
と叫んで立つ人を探すために、
そのような世の中が必要だというのです。

ですから皆さん、進む道がふさがったと
落胆しないでください。
この国が乱れると気落ちしないでください。

神様は死んではいません。
この世界がどんなに乱れても、
気落ちしないでください。

神様は死んではいません。
神様は必ず訪ねてこられます。

すべてが動揺しても、
天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。
天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。

その心を変えようとするために、
神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、
その場で父を呼ぶことができる心を
もたなければなりません。

いかなる場に落ちても、
その場で天の心情のひもをつかんで
上がろうと努力しなければなりません。

地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、
父と共に参与する立場に立って
父の苦痛を私が思いやって、
その父は私の苦痛を察してくれることを信じて、
そのような場でも行くという
責任と義務を感じていくならば、
皆さんは滅びないでしょう。

今日、数多くのキリスト教徒がいますが、
そういう信者が果たして何名になるでしょうか。

私たちは父に侍るのに、
天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、
死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために
御苦労される父に侍らなければなりません。

その父を私の父と知り、
その父の事情を私の事情として、
その父の心情を私の心情として、
その父の願いを私の願いとして訪ねてこられる
父の前に雄々しく立って、

「あなたの息子を探すことが
 あなたの願いであることを知って、
 その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、
 あなたの事情であることを知って、
 失った息子を抱き締めて愛したいのが
 あなたの心情であることを知りました。

 どのような塗炭の苦しみと
 患難と難しさの中にあったとしても、
 私があなたの願いの実体であり、
 事情の実体であり、心情の実体です」
と自信をもって立たなければなりません。

このような者であってこそ父の息子であり、
またその父に侍ることができる者になる
ということを皆さんは知らなければなりません。


文鮮明先生み言選集第11巻
1961年2月12日
「侍りたいお父様」より
『患難の時を用意された意味』

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これは、2012年に一度投稿したものです。

当時、文先生が聖和されてから、
いろんなことがありました。

すでに未来を予言されているかのような内容であり、
その時、患難を越えていこう、と
このみ言で励まされた思いがありました。

今、まさに必要な時だと思い、
改めて掲載させていただきました。

様々な困難を乗り越えて来られた真の父母様であります。
それは、神様を慰労して差し上げたい・・・
その一点だったのではないでしょうか。。。

神様のために、全生涯をかけて歩まれた父母様のように、
私たちも、神様を掴んで離さない、
その思いをもって、歩んでいきたいと思うのです。




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