史吉子先生『原理によるみ言の証』より
「お父様が探された偉大な新しい真理 (原理) を、
全世界に伝えなさい」 です。
☆
「原理講論要約3時間用訓読チャート」の5ページを見ます。
内的な無知の解決、すなわち内的な真理は
宗教を通じて探すのであり、
外的な無知の解決、すなわち外的な真理は
科学を通じて探すのです。
これがまさに新しい真理です。
これがまさにお父様(文鮮明師)が聖書の未解決部分を
明らかに解明され、体系化された
私たちの偉大な原理です。
☆
原理講論訓読チャートの2ページには、
人間の矛盾性と堕落に関する内容が出て来ます。
邪心と言う言葉も出て来ます。
私が若かった時、いつもお父様の側で侍り、
一緒にお食事もし、勉強もしたために、色々と質問をしました。
それが、今の私には大きな助けとなっています。
その時はお父様がお母様(韓鶴子総裁)と
聖婚される前の 1955年、1956年頃で、
今のように気兼ねすること無く、
まるでお兄さんのように私たちに優しく接してくださいました。
この「邪心」については、その時にお伺いしてみました。
私が、「先生も同じ人間でしょう?」、
「うん!」、
「それなのに、どうして普通の人が
探し出せない原理を明らかにして、
世界を全て救うつもりだと言えるんですか?」と言ったら、
「邪心を捨てたから!」と、
おっしゃいました。
☆
邪心は前にも説明しましたが、
この邪心のせいで人は苦しむのです。
私の本心は善なることをしようとするのに、
この邪心のせいでしばしば悪なることをするようになります。
それで、この邪心を取り去ってしまおうと、
歴史的に宗教を信じる人、哲学やその他多くの分野で
していた人々は、非常に苦労をして来たのです。
しかし、人類は未だに
この邪心を完全に取り除くことができていません。
☆
この邪心を取り除くためには、祝福を受けるしかないのです。
祝福を受けると、邪心が取り除かれます。
祝福を受けると、なぜ邪心が取り除剥かれるのか?
人間の祖先であるアダムとエバは、
神様を中心として愛せませんでした。
サタンを中心として愛しました。
それでサタンの血統を受けたのです。
アダムとエバの愛が喜びの愛になれず、
相衝する(互いにぶつかり合う)愛の起源になることによって、
生命の根を埋め込んだ私たち人間自体の紛争は、
そこから始まったと言わずにはいられません。
(『真の家庭と私』2p)
☆
祝福は神様を中心として愛し合うようにと、
与えてくださるものです。
それで、自分の生命と自分の全てを犠牲にする生活、
お互いのために生きる祝福の生活によって、
邪心が取り除かれるのです。
それで私も祝福を受けなければならないし、
全世界の全ての人も祝福を受けなければならないのです。
私たちは現在、祝福を受けて
神様の血統に転換をしましたが、
祝福を受けていない父母から生まれた人々は
どうすることもできず、
血統がサタン側です。
血統はいつ始まるのか?
男性の精子が女の子宮の中に入って、
卵子と受精をする瞬間に血統が始まります。
既にお話したように、サタンの血統を
切り捨てて神様の血統に転換するには、
祝福を受けなければならないので、
お父様は最近も話されますが、
「私が霊界に行く前に、地上にいる人も
全て祝福してあげ、霊界にいる人も全て祝福してあげて、
サタンの血統を完全に無くしてしまって、
神様の血統に全部転換させ、
永遠に残ることのできる神様の国を
創っておかなければならない。
これが私の責任だ。」
と、語られます。
史吉子
『原理によるみ言の証』より
『原理によるみ言の証』より
☆
「邪心をすてた」ときっぱりと言われるお父様、
本当に素晴らしいですね!
掃除をしてゴミをポイと捨てるような、
簡単なことのように聞こえますが、
実際には、そんな簡単なことではないですね。
お父様は同じ生身の人間だとおっしゃいますが、
メシヤたるお父様だからなされたことであって、
凡人の私たちには、到底たどり着けない
境地のように思えてしまいます。
しかし、超人だから越えられたのではなく、
神様と一つになられているがゆえに
痛みを伴う犠牲を直接越えてくださった
父母様であると思うのです。
私たちは、祝福を通して、
血統は神の血統になった立場ですから、
そのことを自覚し、心に刻みこみつつ、
究極の道が神氏族メシヤ勝利だと思いますので、
一歩一歩でも近づけるように、
歩んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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