2022年07月08日

「自分の十字架を負って主に従う」とは、どういう意味? 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言「苦痛の中での信従」より、 
今回は、『苦痛を正しく理解する』です。


きょうは聖書の
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
 自分を捨て、自分自身の十字架を負うて、
 わたしに従ってきなさい」

(マタイ一六・二四)という聖句を中心として、
「苦痛の中での信従」という題でお話しします。

信従とは、文字どおり、信じて従うということです。

「苦痛の中での服従」という題を選んだほうが、
皆さんも理解が早いでしょうが、
服従とは多少意味が違うので、
あえてこの題でお話しすることにしました。

 
私たちは苦痛という問題を信仰路程において
正しく取り扱わなければならないということを自覚し、
苦痛は神のみ声であり、
神様の啓示であるということを再三感じながら、
今日まで苦労を越えてきたわけですが、
再びここでお話しするのは、苦痛というこのことを
より正しく理解しなければならないことを実感したからです。

実際に、苦痛を間違えて扱えば、
苦痛が苦痛としてのみそのまま続きます。

そうする限り、このような苦痛を通しては
生命のきずなにつながらないことも知って、
私たちは苦痛のもつ意味を正しく理解しなければなりません。

 
「汝自身を捨て、十字架を負って我に従え」
と言われるときの十字架は苦痛であり、
苦痛は罪であり、その罪は堕落性です。

十字架とは何かというと、それは堕落性であり、
その堕落性のために苦痛が来るというのです。

私たちが堕落した結果として、神に苦痛を与え、
イエス様に十字架を負わせ、(文)先生を悲しませ、
いばらの道をたどらせたという事実を、
私たちはよく知っています。


しかし、自己を捨てて自らの十字架を負っていく
ということは本当に難しいことです。

捨てようか、拾おうかと迷いつつ、
自己の十字架を負う心が、果たして
それが自分の十字架なのか、また堕落性なのか
という分別がつかないため、私たちは真の人間になれないのです。

正当な道だと思って歩んできたはずなのに、
真実を知ってみると、そこに堕落性が潜んでいたのです。

カインは、自分が正しいと思い込んでいましたが、
覚めてみると、堕落性にとらわれていたし、
ハムも、またイスラエルの民も、そうだったのです。


このように今日まで自分の十字架を負えず、
天を悲しませてきた不信の歴史を考え、
私たちは、果たして自分の負うべき十字架を
見いだしているのだろうかと自らに問う、
その自覚が大切なのです。

私は自分の十字架を発見しているのだろうか。
創造本然の私と、堕落した私を
正しく分別することのできる私であるのか、
という自覚が要求されるのです。


ここで感ずることは、実際に恵みを受けた
という人々の中に、自分という堕落性が多いというのです。

今日まで、聖霊の恵みを受ければ
新生するものと信じていましたが、
聖霊を受けたという人々に堕落性が著しいのは
いったいなぜでしょうか。

選民イスラエルがイエス様を殺したように、
信仰の篤い人々が同じ篤信者を打ち殺し、
本当に良い信仰者だという人たちが今、
私たちの先生を憎むのです。


「自分の苦痛を背負い、主の苦痛を負って
 従わない者は、私にふさわしくない」。


自分の十字架を負い、主の十字架を負って
従ってこない者は、主に受け入れられない者です。

「自分の十字架を負い、私について来る者こそ
 私にふさわしく、自分の父母より、
 自分の夫や妻より、そして自分の命よりも
 私をより愛する者こそ私にふさわしいのだ」


とイエス様の語られたことの反対に、
私たちは自己の苦痛を捨て、
主の苦痛を負って、主に従っていかない者は
主にふさわしくないということを
肝に銘じなければなりません。

私たちはできれば自分にのしかかる苦痛を
避けようとして、「苦痛が来なければいいなあ」
と、いつも心では願っているのです。

15・苦痛の中での信従 
「苦痛を正しく理解する」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


「堕落観念に徹せよ」
というお父様のみ言が頭に浮かびました。

イエス様の時代、ザアカイのような取税人、
マグダラのマリアのような娼婦がいました。

彼らは、卑しい職業と言われる人たちでしたが
イエス様に出会い、自分が罪びとであることを自覚し、
本当に救われたと実感したことでしょう。

私たちも真の父母様によって、
救いを受けたことを感じるために、
正々堂々と、自分の罪を天に告白する思いで、
天に委ねていくことが重要なのだ、と思うのです。




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posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする