李ヨハネ先生のみ言「苦痛の中での信従」より、
今回は、『苦痛を正しく理解する』です。
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きょうは聖書の
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、
自分を捨て、自分自身の十字架を負うて、
わたしに従ってきなさい」
(マタイ一六・二四)という聖句を中心として、
「苦痛の中での信従」という題でお話しします。
信従とは、文字どおり、信じて従うということです。
「苦痛の中での服従」という題を選んだほうが、
皆さんも理解が早いでしょうが、
服従とは多少意味が違うので、
あえてこの題でお話しすることにしました。
☆
私たちは苦痛という問題を信仰路程において
正しく取り扱わなければならないということを自覚し、
苦痛は神のみ声であり、
神様の啓示であるということを再三感じながら、
今日まで苦労を越えてきたわけですが、
再びここでお話しするのは、苦痛というこのことを
より正しく理解しなければならないことを実感したからです。
実際に、苦痛を間違えて扱えば、
苦痛が苦痛としてのみそのまま続きます。
そうする限り、このような苦痛を通しては
生命のきずなにつながらないことも知って、
私たちは苦痛のもつ意味を正しく理解しなければなりません。
☆
「汝自身を捨て、十字架を負って我に従え」
と言われるときの十字架は苦痛であり、
苦痛は罪であり、その罪は堕落性です。
十字架とは何かというと、それは堕落性であり、
その堕落性のために苦痛が来るというのです。
私たちが堕落した結果として、神に苦痛を与え、
イエス様に十字架を負わせ、(文)先生を悲しませ、
いばらの道をたどらせたという事実を、
私たちはよく知っています。
☆
しかし、自己を捨てて自らの十字架を負っていく
ということは本当に難しいことです。
捨てようか、拾おうかと迷いつつ、
自己の十字架を負う心が、果たして
それが自分の十字架なのか、また堕落性なのか
という分別がつかないため、私たちは真の人間になれないのです。
正当な道だと思って歩んできたはずなのに、
真実を知ってみると、そこに堕落性が潜んでいたのです。
カインは、自分が正しいと思い込んでいましたが、
覚めてみると、堕落性にとらわれていたし、
ハムも、またイスラエルの民も、そうだったのです。
☆
このように今日まで自分の十字架を負えず、
天を悲しませてきた不信の歴史を考え、
私たちは、果たして自分の負うべき十字架を
見いだしているのだろうかと自らに問う、
その自覚が大切なのです。
私は自分の十字架を発見しているのだろうか。
創造本然の私と、堕落した私を
正しく分別することのできる私であるのか、
という自覚が要求されるのです。
☆
ここで感ずることは、実際に恵みを受けた
という人々の中に、自分という堕落性が多いというのです。
今日まで、聖霊の恵みを受ければ
新生するものと信じていましたが、
聖霊を受けたという人々に堕落性が著しいのは
いったいなぜでしょうか。
選民イスラエルがイエス様を殺したように、
信仰の篤い人々が同じ篤信者を打ち殺し、
本当に良い信仰者だという人たちが今、
私たちの先生を憎むのです。
☆
「自分の苦痛を背負い、主の苦痛を負って
従わない者は、私にふさわしくない」。
自分の十字架を負い、主の十字架を負って
従ってこない者は、主に受け入れられない者です。
「自分の十字架を負い、私について来る者こそ
私にふさわしく、自分の父母より、
自分の夫や妻より、そして自分の命よりも
私をより愛する者こそ私にふさわしいのだ」
とイエス様の語られたことの反対に、
私たちは自己の苦痛を捨て、
主の苦痛を負って、主に従っていかない者は
主にふさわしくないということを
肝に銘じなければなりません。
私たちはできれば自分にのしかかる苦痛を
避けようとして、「苦痛が来なければいいなあ」
と、いつも心では願っているのです。
15・苦痛の中での信従
「苦痛を正しく理解する」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「苦痛を正しく理解する」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
「堕落観念に徹せよ」
というお父様のみ言が頭に浮かびました。
イエス様の時代、ザアカイのような取税人、
マグダラのマリアのような娼婦がいました。
彼らは、卑しい職業と言われる人たちでしたが
イエス様に出会い、自分が罪びとであることを自覚し、
本当に救われたと実感したことでしょう。
私たちも真の父母様によって、
救いを受けたことを感じるために、
正々堂々と、自分の罪を天に告白する思いで、
天に委ねていくことが重要なのだ、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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