金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「私は神の代身者である」を紹介します。
1948年〜1950年、北の”死の収容所”と呼ばれる
興南で、過酷な収容所生活を送られた
文鮮明(ムンソンミョン)師について語られています。
☆
牢屋では、二つのことが禁止されていました。
たばこを吸ってはいけないことと、
起きる時間と寝る時間を絶対に破らないことです。
どこの国でもそれは同じだと思います。
たばこを吸うためには火が必要です。
もし牢屋に火をつけたら囚人が全部逃げて行きますから、
火に一番気をつけるのです。
また、脱出するためには、起床時間前に起きて
工作しなければならないので、時間を厳守させるのです。
そういう中にあって、(文)先生はいつも
刑務所の人たちの目を避けながら、
朝一時間早く起きてそれを怠らなかったというのです。
☆
先生が朝早く起きるということは、非常に大事なことでした。
そしてそれを見付けられたら大変なことになります。
ある人は発見されて、独房に入れられたこともありました。
先生にとって、身体を保つということにも意味がありますけれども、
先生の体は神の実体として
人類を救わなければならない身であると考えられたのです。
その時、この身は自分個人の身ではなく天の身であると考え、
この身を大事にし、清らかにしなければならないという
内的意義があったということを、
私たちは考えなければならないと思います。
☆
先生のおられた牢屋の中には、
いつも二十名の人たちが収容されていました。
牢屋の中で一番空気の流通の良い場所もありますけれども、
先生はそういう所には行かず、
手洗いのそばに座席を決められたというのです。
というのは、空気の流通の良い所は窓のある所で、
多くの人たちが体の上をまたいで越えていくからです。
天の身をこれらの人たちにさらしたくない、
触れさせたくない、清く保とうと思われたのでした。
外的に見れば汚い所ですが、
そういう所を自ら進んで選んで、
そこで二年半という長い間生活なさったというのです。
☆
先生御自身は天宙復帰の責任を果たさなければならない、
いわば天の代身者であるという、その自覚を忘れなかったのです。
神のみ旨を成就しなければならない、
神の代身者としての身なのでした。
この身は私の体ではない、神の体であるから、そ
の体は神殿、聖殿であるというのです。
だから先生は、御自身が神の代身者であることを悟った時に、
今一緒に生活している人たちと
区別しなければならない身であるとして対処されたのです。
窓際に眠る位置を定めてしまうと、
数多くの人が出たり入ったりして、先生の体を越えて通るというのです。
神のみ旨に添わない不義の人々に、
そういう先生の体を越えさせることを許すことはできないのでした。
だから場所は臭い所であっても、
人々は先生の体を越えないのですから、
そこを眠る場所に定められたのでした。
☆
皆様は、こういうお話は心の中に
そう強く響かないかもしれませんけれども、
神のみ旨を成就する中で、
皆様は大山という人だったら大山その人ではないのです。
神の代身者であり、先生の分身であるのです。
だから皆様はどこへ行っても、
「私は神の分身である。代身者である」というプライド、
あるいは自覚をもっているなら、
不義をすることはできないのです。
普通の人々と同じような生活はできないというのです。
☆
だから、先生の刑務所での生活を見て学ぶことは、
平素から「私は神の代身者である」
ということを守らねばならない私であるということです。
先生は不義なる人と一緒に暮らしても、臭いところであっても、
その身は汚さないというのです。
心情はいうまでもなく、身さえ汚れることを許さないというのです。
共産党はべッド(床)から起き上がっただけで、
「体を動かした」と言うのです。
それで先生は、ベッドから起きないで
「私の誓い」の三番目にある
”父母の心情、僕の体で汗は地のために、涙は人類のために、
血は天のために流す”ということを、
ベッドに横になったままで、
足を動かしながら誓いをされたといいます。
ですから一つの場所ばかりでなく、
どういう所でもどんな形でも、お祈りはできるのです。
皆さん、聖地は教会の中ではなく、
すべて外にあるではないですか。
神の心情でお祈りする所は、どこでも聖地になりうるのです。
平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「私は神の代身者である」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第四章 天情と人情
「私は神の代身者である」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
真のお父様(文鮮明先生)は、監獄の中でも
横になりながら、私の誓いを唱えられた、といいます。
私もかつて、拉致監禁を受けた時、
布団の中で、あるいは、シャワーを浴びている時、
さらには、トイレに入ったときにも祈りを捧げていきました。
その時は天に通じているか、実感がありませんでしたが、
今思うと神様は聞いてくださっていたのにちがいありません。。。
こういう時だからこそ、文先生のように、
神様の代身者である、という自覚をもって、
日々の歩みをなしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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