2022年09月18日

ただ「こうしてはいけない」で終わりではない 分別と否定 《金元弼先生》




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「人情と天情、自己否定」です。

信仰上の「分別」というのは、
人との関係を切るのが目的ではなく、
自分のすべてを否定するのが
「自己否定」ではないというのですが──


(文鮮明)先生は、食口が教会を訪ねて帰る時には、
食口の後ろ姿が見えなくなるまで、
門の所でじっと立って見送りました。

食口がまだ帰って来ない時には、
外に立って待っている先生でした。

そういう先生であるがゆえに、
お母様(忠母様)が帰ったとしても、
親孝行の思いは、いつまでもいつまでも
心から離れるはずがないのです。


皆さんも、神のために決心してやっているのに、
愛する兄弟、愛する友達、愛する親が
この道を理解できないで、家に帰るように、
あるいは一緒にいるようにと言って
涙を見せるならば心が非常に弱くなります。

そして親の所に、友達の所に戻っていく
ということもあるわけです。

もし、教会員が皆様を訪ねて、
「私はどうしたらいいのでしょうか。
家に帰ってきたらいいでしょうか」と尋ねますと、
皆様自身も、どのように指導してあげたらいいのか、
心が弱くなる時があると思います。

我々は人情と天情に対して、こんがらがるときがあります。


元々、堕落しなかったとすれば、人情は天情に通じ、
天情はそのまま人情に通ずるものでした。

ところが堕落した結果、人情と天情は
一致しないものとなりました。

それゆえに、私たちはまず天情を結び、
その次に人情を立てなければならない、
そういう復帰の道を行くようになったのです。


そこで二〇〇〇年前に来られたイエス様も、
私たちに教えてくださったのは、まず

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
 さらに自分の命までも捨てて、
 わたしのもとに来るのでなければ、
 わたしの弟子となることはできない」

(ルカ一四・二六)

ということです。
その事情がよく分かっていたイエス様は

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
 平和ではなく、
 つるぎを投げ込むためにきたのである」

(マタイ一〇・三四)

と表現しました。
誰よりもイエス様を愛さなければならないことを
教えました。


イエス様との情は天情を意味します。
自分の兄弟や親子との情は人情を表します。

ですから、「私をより愛せよ」とは、
人情よりも天情を立てなさい、ということです。

そういう点をはっきりさせていない時には、
今の私たちであっても、神の道を
まっすぐに行けないことがあります。

この世の中の人情を切ることが目的ではありません。
堕落して汚れた因縁をもっている人情を一度分別して、
天情につながることによって、再び人情を立てるためです。

ですから、過去の自分、堕落した時の自分を
否定することによって、初めて
本然の自分を立てることができるのと同じです。


宗教が自己否定を主張したのもその点からなのです。

しかし、自己否定は本然の自分の否定ではありません。
私たちも、最初み旨の道に入ったころ、
すべてを分別する生活をしました。

親との関係、社会との関係も全部分別していました。
その当初は、兄弟でも親でも
サタンの血統圏にいるように考えて、
分別する生活をしたこともありました。

先生はそのように教えたのではないのですけれども、
私たちにはそういう心がありました。
親子の関係も社会の関係も
全部永遠に切るものだと思いました。


一九六〇年以降になりまして、
たびたび氏族復帰のことを教えられました。

今まで完全に切ってしまっていた関係を
これから復帰しなければいけないということは、
ほかの人にはどうか分かりませんが、
私としては非常に大きな仕事でした。

分別する元々の目的が復帰することであったと、
はっきり分かってきました。
分別する時代は分別そのものに目的があるのではなく、
統一というところに目的があるということが
はっきり分かったのです。

私たちが神の人となるために、
こういう厳しい分別の時代がある
ということを忘れてはなりません。

 
私たちが、兄弟の中にあって、
間違ったことを見たとしましょう。

私たちはその兄弟が分別できるように、
厳しく教えてあげるのは当然だと思います。
また厳しく分別するように教えなければいけません。
分別する時は厳しいものです。

分別というのは、誰と誰を分別することでしょうか。
何を分別することですか。
間違っている人を分別してあげるとは、
どのようにすることですか。

何を分別することですか。
(悪いことをする思い、邪心)。
ですから、サタン的な要素を
厳しく分別してあげなければいけないでしょう。

分別する目的は何でしょうか。
(サタンを分別するため)。
誰と一つになることですか。
(神)。

 
ところが、「こうしてはいけません」とか、
「こういうふうにしましょう」という人は、
言う前の気持ちが必ず悪いのです。

それは、真の授受作用*がないからです。
気持ちが悪いというのは、
早く授受作用しなさいということなのです。

だから授受作用するためには、
分別してあげなければならない部分を
取り除かなければなりません。

そうしたら一体化するのです。
その人が好きになるのです。


ところが、現実はそうではありません。
理論的にはそういう結果が出なければいけないのに、
結果としてもっと嫌になるのです。

統一教会を理解していない人たちに会いますと、
皆さんは一体化できません。

ところが、その人の心を変えて、
統一教会に対して正しく理解してもらうと、
その次にはどうなりますか。
一つになります。
その人が好きになります。

それ以前に、私たちを理解できないで
反対していた時には、皆さんは一つになれませんでした。
その人に対して気持ちが良くなかったからです。


私たちがその人に原理を教え、教会を教え、
神の道を教えるということは、結局は
理解できない部分を取り除いて一体化するためです。

人に話してあげるのは、一体化することに目的があります。

皆様が忠告してあげても一体化できないということは、
目的を達成していないということです。
ですから、一体化までが目的地だということを
はっきりと分かってほしいのです。

話をしてあげただけで、その人に対する
忠告が終わったと考えてはいけません。

神のみ言を中心として、私と相手が一体化して
非常に気持ちが良いという立場まで到達しなければいけません。

平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「人情と天情、自己否定」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
*授受作用:統一原理で説明している発展の原理
『原理講論』には以下のようにある
「主体と対象とが・・・良く授け良く受ければ・・・
生存と繁殖と作用などのための力を発生する」

神様は目には見えないお方です。
ですから、神様はいない、と否定する人もいるし、
神様を信じる人たちにおいても、
その捉え方は様々です。

私たちは、文先生が出会われた神様を信じます。
その神様は私たちの親であり、
真の父母である、というのです。

その神様の願いを果たすためにこの道を歩んでいますが、
たとえば、愛する両親に反対された時、
どのように対処していくのか、
ここで人情と天情、という言葉が出てくるのでしょう。

拉致監禁・強制改宗など信仰を脅かされる場合には、
やむを得ず一時的には、親の愛(人情)を
否定しなければならないことがあるかもしれません。

反対する人たちとの関係を切ることは、
今、家庭連合では勧められていません。
私たちの信仰にとっても、
とても微妙で高度な問題だと思います。

間違っていることは間違っていると、
はっきり伝えていかなければなりませんが、
しかし、いずれは天を中心に一つになる、
そのための期間であることを思っていきたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 09:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月17日

(証し)「息子が来たんだ、早くご飯をもって来なさい」 後藤代表と真の父母の出会い




220917.jpg


12年5ヵ月の拉致監禁・強制改宗から
生還した後藤徹代表が、
真の父母様(文鮮明・韓鶴子夫妻)に
会われたときの証しを紹介します。


真の父母様が後藤食口(シック:教会員のこと、家族のような表現)
天正宮博物館に呼び、朝の訓読会ののち、
父母様の食卓に招待してくださいました。

彼は真の父母様の恩賜に感謝しながら、
ずっと涙を流していました。

お父様は、彼が席に座るやいなや、
台所のほうに向かって食事の準備を促され、
「どうして、まだご飯が準備できていない!
息子が来たんだ、早く持ってきなさい!」
とおっしゃいました。

たった一言のみ言でしたが、
苦労の道から帰ってきた息子に、
どんな心情で対されるのかを
感じることができました。
一緒にいたみんなが深く感動しました。

真のお父様は、
後藤食口のために揮毫(きごう)され、
真のお母様は、お父様がつけていらっしゃったネクタイと、
統一教会のマークが彫られている
指輪を贈り物にあげられました。


私は後藤食口こそ、統一家の英雄だと言いたいのです。

なぜ、そうですか。
彼が完璧だからですか。
彼に超人的な能力があるからですか。
違います。

彼は私たちと同じです。
ところが、なぜ彼が英雄なのですか。

あまりにも巨大な試練と苦難に遭いましたが、
真の父母様への絶対的な信仰基準で
堂々と勝利したからです。

それは草創期の信仰的伝統が
彼の心情の中に生きているからです。

参考:(説教集「真の父母様と私」
真なる相続者−絶対的な信仰基準−)
日本語として
適切な表現にするため
ところどころ編集しています(文責:ten1ko2)


お父様(文先生)が何故、食事を促したのか、
ここでは表現されていませんが、
深い事情がありました。

後藤さんが十二年五ヶ月の間
どんな思いで過ごしてこられたか、
これは筆舌に尽くしがたいです。

その中でも特に、終盤
まともな食事を与えられなく、
栄養失調のような状態で解放されました。

あまりにもお腹がすいて
どうしようもなく、
生ゴミに残っていた物や
流しで洗い残しの生米を見つけ、
拾って食べていたといいます。

どれほど飢えていたか知れません。
長い期間、耐え忍び、どれほどいろいろな物を
食べたかったことでしょうか。

真のお父様は、
そのことを霊的に察知されていたのに
ちがいありません。

「息子が来たんだ」
というお父様の一言に
そのような深い心情が込められている
そのことを忘れてはならないでしょう。

後藤さんは、被害者の代表であり、
すべての拉致監禁体験者への
真の父母様の愛を感じます。

さらに、私たちすべての食口(教会員)、
離教してしまった人たち、
また将来父母の元に帰るだろう
すべての子女(人類)に
語りかけられたみ言であると感じるのです。




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2022年09月16日

人に会うことは、神様に会うこと! 文先生作詞「統一勇士の歌」、誕生秘話



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♪心情のゆかりで 世界は生き
一つに結ばる 本然(もと)の縁



聖歌7番、「統一勇士の歌」
この曲は、私の好きな聖歌の一つです。

ふとこの曲のことを思い出しました。
以前、紹介したものではありますが、
歌のエピソードを記したいと思います。


「統一勇士の歌」は、一九六二年、文鮮明先生が作詞されました。

曲は韓国の大邱(テグ)という町の市民歌曲からとったそうです。
この歌のいきさつを、朴正敏(パクチョンミン)さんという
婦人伝道師は次のように語っています。

「伝道報告会で集まったとき、文先生が
『釜山(プサン)のうぐいす!』とお呼びになり、
何かうたうように言われました。
私は、昔開拓した大邱の市民歌曲が大好きだったので、
それをうたいました。

大邱は教育が盛んで、熱心なクリスチャンが多い町です。
その歌は市街を囲む自然の美しさと、
心の誇りをうたった愛郷歌で、苦しいとき、
いつもそれをうたっては勇気を出して開拓伝道をしたものです。

先生は大層気に入られ、幾度も私にうたわせられました。

数か月後、そのメロディーに、
先生は希望と激励に満ちた詩をつけられ、
皆に教えてくださったのです」


朴正敏さんを訪ねた時
「おお、何と大切な人でしょう!」
とまるで母が幼子に会ったように、
温かい力で私を抱きしめてくださいました。

「日本の兄弟姉妹は天の宝です。
神様がどんなにか、胸あふれるほど
愛していらっしゃることでしょう。
そのことを思うといつも泣かずにはいられません」
と、それは心の深いところから
溢れてくるような声でした。

たった一人に会ったときでも、
日本の兄弟すべてに会ったような、
神様の親の心情を持って迎えてくださる・・・
その姿に私は神様に会ったような
感覚を覚えました。

同行してくださった李ヨハネ先生が、
「人に会うのは神に会うのですね」
としみじみおっしゃった言葉も忘れられません。

信仰が実らせる見事な情感。
人と人との間に常に神様がおられる。
その霊的雰囲気がさりげなく、
呼吸する大気のように満ちていた清冽(せいれつ)な印象を、
この歌を歌うたびに思い起こします。

天野照枝先生著「聖歌のゆかり」


真のお父様は1962年、42歳(数え)のときに
聖歌7番「統一勇士の歌」を作られました。

私が学生部にいた頃、
当時のリーダーは、この歌が大好きで、
伝道出発式のとき、歌詞の意味を解説されながら、
何度も何度も歌ったことが思い起こされます。

「人に会うのは神に会うのですね」
と語られたヨハネ先生のみ言も印象的です。

真のお父様が1965年ご来日のときに、
本部教会で、解説されたみ言がありました。



『統一勇士の歌』の一節は心情と、二節は人格と、
三節は真理と、四節はその理想となっておりますね。
心情、それから人格、それから真理、
それから我々の理想。

だからその理想世界に入るには
心情を持たなければならない。
そして人格を完成しなきゃならない。
そうして真理ですよ。
そういうことになる。

この統一勇士の歌は
先生が三年前(1962年)に作った歌ですね。


1965年1月30日 本部教会(東京都渋谷区南平台)でのみ言より



この歌をもう一度、伝道を出発するときに、
歌っていきたい、そう思いつつ、
真のお父様が作詞された歌詞の、日本語訳を紹介して終わります。
(日本語の聖歌の歌詞とは違います)

一、心情の因縁で世界は生き
  一つに結んでくださった本性の因縁
  永遠に与え受ける私たちの本郷
  幸福の礎の上にとこしえに生きよう
  私たちは誇らしい統一の勇士
  力強く情を合わせて勇進しよう

二、無限の人格で光を放つ
  造られた万物の栄光の燈台
  生命がほとばしる本然の姿
  所望の価値として花咲かそう
  私たちは誇らしい統一の勇士
  力強くみ旨を立てて勇進しよう

三、秩序の基の上に真を立て
  永遠を約束する不変の価値
  高らかに立てられる真理の標柱
  希望に満ちた善なる日を飾ろう
  私たちは誇らしい統一の勇士
  力強く叫びながら勇進しよう

四、東方に明けて来る輝かしい文化
  全世界がその光の中で兄弟となり
  願われた善の父母をとこしえに慕い求め
  必ずや成し遂げよう一つの世界
  私たちは誇らしい統一の勇士
  力強くその世界に勇進しよう


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