2022年09月08日

ご因縁のとらえ方 事件がなぜ起こったかよりも、大切なこと 《蝶野部長*精誠篇2》@



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大変お待たせいたしました。
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)
今日から、第2シリーズに入ります。


私たちは、 自分の血統の中には何があるかほとんど知りません。

先祖数百代でいろんな因縁がきているわけですから、
これはわかりません。

例えば、ある交差点で事故に遭った相手方と
保険の交渉になったとします。

なぜその交差点でその日にぶつかったのか、
なぜ右足をけがしたのか、
なぜ相手が誰それさんだったのか、
なぜ交渉がうまくいかなくなったのか、とか
なぜ昼だったのか、なぜ夜だったのか、
これを分析していると一生かかっても無理です。

これはなぜかというと、その交差点で
事故になければならない理由が、
土地的なものもありますよね。

それでは、その相手でなければならない理由も、
(この家系の因縁的な原因があるかと思えば)
また別な家系から(の理由も)あるわけです。

家系というのは、(1人の人から多くの人が産み増え
また上を見ても父母2人、祖父母4人、
曽祖父母8人というように)広がっていますから。

なぜその相手でないといけないか、
なぜ右足のケガなのかということを
分析している間に、一生終えます。
というより、分析はできません。


ですから、これは複合的に起こってるのです。
3つ4つの蕩減(償うべきこと)問題を、一つの事故で
終わらすために起こっているわけです。

(アブラハムの)三種のお供え物もそうでした。
鳩と羊と雌牛でした。

この10代前の先祖と、20代前の先祖の蕩減復帰を、
一つの祭壇でやろうとしたわけです。
アブラハムは、これを知りませんでした。

だから、この一つのことで何十代前と何十代前の
清算ができるというのは、神様が摂理する部分であって
私たちはそれをちゃんとやるかどうか、
感謝してやるかどうかにかかっていたと同じように、
分析するということよりも、
起こっていること、神に命ぜられたことに対する、
私たちの姿勢が、実は鍵だったということなのです。


例えば、自分が通勤中にいじめを見た、
カツアゲしてるの見た、また子どもと子供が
暴力を振るってるの見た。。。

『まーあんな子どもどこのお子さんかしらー』
と、皆さんは見るかも知れませんね。
『あのお子さん、ちょっと親に教えようかしら』
とか、『いや警察に言おうかしら』
…いろいろ思うかもしれません。

しかし皆さん、偶然はないということを、
知っていますよね。

なぜ私がこのように、子供が子供を
いじめているところを通りすがりに見るんでしょうか。
なぜスーパーで万引きしてるシーンを
自分が見てしまったんでしょうか。

偶然ではないわけですよ。

実は自分の中に、何らかの
蕩減しないといけない情報があるわけです。

これ【罪】と書いてますけれども、
「蕩減の内容」と思ったらいいと思います。

「蕩減の内容」、【罪】があるわけですね。
これは、自分の血統の中にある
【罪】を実は見てるのです。


あの息子さんなぁ、(うちの)息子は
立派な息子だ、あんな息子じゃないとか。

あるいは、例えばスーパーで、近所の奥さんが
万引きしているのを、自分が見てしまった。

「まあ、あんな人になっちゃダメだ」
と言うんじゃなくて、
なぜそれを(私が)見たのか。

先ほどお祈り中にもありましたように、
みなさんが「当代で晴らそう」
という決意はされるのです。

私たちも当代で世界の摂理を、日本の復帰も
やろうとしないといけないと思います。

だからすごい圧縮して
いろんなことがあるんです。

私は万引きしたことないから万引きのシーン見ても、
自分は万引きと関係ないと思うのではありません。

関係あるから見てるんですね。
どういうふうに関係あるかは調べなくていいんです。
見てるんだから関係があるんですね、皆さん。
調べたらもうキリがないんですね、これ。


ですから、出会ってるんだということですよ。
短い人生の中で、いろんな思いを体験します。
自分が清算すべきことを神様が全部教えてくれてるんです。

それを私の重荷としてみるのか、
私が浄まっていくために神様が与えてくださった、
ありがたいものと見るのか、
これが皆さん宗教的な分水嶺なんですよ。

これによって、まったく世界が変わります。
全く同じものを見ても、
方や堕落性が多くなって悪霊をどんどん増やしていきます。
方や、悪霊の再臨復活でどんどんどんどん、
あるいは人格が成長していく。。。

この時に悔い改めるべきなんですよ。
人の罪を見た時に自分の罪のように
悔い改めるってのは、基本ですね。


これは、キリスト教でもやってます。
イエス様を十字架につけたのはユダヤ人ですが、
それはあなただっていうふうに、伝道するでしょう。

「塩狩峠」の最初なんかそうでしょう。
いや、私はイエス様十字架につけてませんと。
私が十字架に付けたんだと、
イエス様という私の責任としてみる、これは原理観です。

だからこの罪を見たのも、このシーンを見たら、
私の血統の中に何かあるんですねと。

神様、何かわかりませんが、私が見たということは
あなたの摂理なんですね。
あなたが見せてくださったんですね。
許してくださいと。

何かあるかもわかりませんが、
お父様、許してください、こう言ったらいいのです。

その言った瞬間、この個人が
この時に晴らすべき蕩減の情報が、
結局このように消えていくわけです。

罪が完全に消えるという風な表現ではなくて、
私がその時清算すべき、原理講論で、
この信仰基台の部分、
内的な蕩減がこの一言で終わるんです。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


すべての事象は偶然ではなく、
意味があるものとして受け止めていく。
これは、信仰を持つ者としての捉え方だと思います。

刑事的に責任を負うということではありませんが、
私たちにしか気づけないこと、
できないことがあるのかもしれません。

今起きている試練も、
私たちの課題や、課せられた使命があると捉え、
乗り越えていかなければならないと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 09:02 | Comment(1) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする