大変お待たせいたしました。
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」
今日から、第2シリーズに入ります。
☆
私たちは、 自分の血統の中には何があるかほとんど知りません。
先祖数百代でいろんな因縁がきているわけですから、
これはわかりません。
例えば、ある交差点で事故に遭った相手方と
保険の交渉になったとします。
なぜその交差点でその日にぶつかったのか、
なぜ右足をけがしたのか、
なぜ相手が誰それさんだったのか、
なぜ交渉がうまくいかなくなったのか、とか
なぜ昼だったのか、なぜ夜だったのか、
これを分析していると一生かかっても無理です。
これはなぜかというと、その交差点で
事故になければならない理由が、
土地的なものもありますよね。
それでは、その相手でなければならない理由も、
(この家系の因縁的な原因があるかと思えば)
また別な家系から(の理由も)あるわけです。
家系というのは、(1人の人から多くの人が産み増え
また上を見ても父母2人、祖父母4人、
曽祖父母8人というように)広がっていますから。
なぜその相手でないといけないか、
なぜ右足のケガなのかということを
分析している間に、一生終えます。
というより、分析はできません。
☆
ですから、これは複合的に起こってるのです。
3つ4つの蕩減(償うべきこと)問題を、一つの事故で
終わらすために起こっているわけです。
(アブラハムの)三種のお供え物もそうでした。
鳩と羊と雌牛でした。
この10代前の先祖と、20代前の先祖の蕩減復帰を、
一つの祭壇でやろうとしたわけです。
アブラハムは、これを知りませんでした。
だから、この一つのことで何十代前と何十代前の
清算ができるというのは、神様が摂理する部分であって
私たちはそれをちゃんとやるかどうか、
感謝してやるかどうかにかかっていたと同じように、
分析するということよりも、
起こっていること、神に命ぜられたことに対する、
私たちの姿勢が、実は鍵だったということなのです。
☆
例えば、自分が通勤中にいじめを見た、
カツアゲしてるの見た、また子どもと子供が
暴力を振るってるの見た。。。
『まーあんな子どもどこのお子さんかしらー』
と、皆さんは見るかも知れませんね。
『あのお子さん、ちょっと親に教えようかしら』
とか、『いや警察に言おうかしら』
…いろいろ思うかもしれません。
しかし皆さん、偶然はないということを、
知っていますよね。
なぜ私がこのように、子供が子供を
いじめているところを通りすがりに見るんでしょうか。
なぜスーパーで万引きしてるシーンを
自分が見てしまったんでしょうか。
偶然ではないわけですよ。
実は自分の中に、何らかの
蕩減しないといけない情報があるわけです。
これ【罪】と書いてますけれども、
「蕩減の内容」と思ったらいいと思います。
「蕩減の内容」、【罪】があるわけですね。
これは、自分の血統の中にある
【罪】を実は見てるのです。
☆
あの息子さんなぁ、(うちの)息子は
立派な息子だ、あんな息子じゃないとか。
あるいは、例えばスーパーで、近所の奥さんが
万引きしているのを、自分が見てしまった。
「まあ、あんな人になっちゃダメだ」
と言うんじゃなくて、
なぜそれを(私が)見たのか。
先ほどお祈り中にもありましたように、
みなさんが「当代で晴らそう」
という決意はされるのです。
私たちも当代で世界の摂理を、日本の復帰も
やろうとしないといけないと思います。
だからすごい圧縮して
いろんなことがあるんです。
私は万引きしたことないから万引きのシーン見ても、
自分は万引きと関係ないと思うのではありません。
関係あるから見てるんですね。
どういうふうに関係あるかは調べなくていいんです。
見てるんだから関係があるんですね、皆さん。
調べたらもうキリがないんですね、これ。
☆
ですから、出会ってるんだということですよ。
短い人生の中で、いろんな思いを体験します。
自分が清算すべきことを神様が全部教えてくれてるんです。
それを私の重荷としてみるのか、
私が浄まっていくために神様が与えてくださった、
ありがたいものと見るのか、
これが皆さん宗教的な分水嶺なんですよ。
これによって、まったく世界が変わります。
全く同じものを見ても、
方や堕落性が多くなって悪霊をどんどん増やしていきます。
方や、悪霊の再臨復活でどんどんどんどん、
あるいは人格が成長していく。。。
この時に悔い改めるべきなんですよ。
人の罪を見た時に自分の罪のように
悔い改めるってのは、基本ですね。
☆
これは、キリスト教でもやってます。
イエス様を十字架につけたのはユダヤ人ですが、
それはあなただっていうふうに、伝道するでしょう。
「塩狩峠」の最初なんかそうでしょう。
いや、私はイエス様十字架につけてませんと。
私が十字架に付けたんだと、
イエス様という私の責任としてみる、これは原理観です。
だからこの罪を見たのも、このシーンを見たら、
私の血統の中に何かあるんですねと。
神様、何かわかりませんが、私が見たということは
あなたの摂理なんですね。
あなたが見せてくださったんですね。
許してくださいと。
何かあるかもわかりませんが、
お父様、許してください、こう言ったらいいのです。
その言った瞬間、この個人が
この時に晴らすべき蕩減の情報が、
結局このように消えていくわけです。
罪が完全に消えるという風な表現ではなくて、
私がその時清算すべき、原理講論で、
この信仰基台の部分、
内的な蕩減がこの一言で終わるんです。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
すべての事象は偶然ではなく、
意味があるものとして受け止めていく。
これは、信仰を持つ者としての捉え方だと思います。
刑事的に責任を負うということではありませんが、
私たちにしか気づけないこと、
できないことがあるのかもしれません。
今起きている試練も、
私たちの課題や、課せられた使命があると捉え、
乗り越えていかなければならないと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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