機を織る金慶継・忠母様(文鮮明師の母)
今日は、真のお父様(文鮮明先生)のお母さんである
金慶継(キム ギョンゲ)・忠母様のお話です。
金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「天情と人情」の続き。
”死の収容所”と呼ばれる興南に、
お母さんが面会に行きます。
それが、文先生が、お母さんに
お会いした最後の姿でしたが──
☆
先生のお母様の愛
韓国の三八度線の南側がソウルとしますと、
平壌は北側で、この北の方に
先生の故郷・定州があります。
興南は半島の東の方です。
先生が刑務所におられた時、御家族、親戚
すべての人たちは北の方にいらっしゃいました。
先生のお母様は、興南から
四〇〇キロほど離れた所に住んでおられたのです。
最も先生のことを心配されたのはお母様でした。
故郷からお母様が訪ねてこられました。
そして先生との面会を終えて帰る途中、
先生のお世話をしておられた玉おばあさんの家で、
私は初めてお母様にお会いすることができました。
☆
その当時、韓国動乱が始まって人々は全部疎開し、
玉おばあさんと私だけが残って、
玉おばあさんの家で日曜日には二人で礼拝をしました。
その時、お母様は私に向かって、
「学生の時から苦労しているのを見ると、
母の心としてたまりかねます。
今度帰ってきたなら、これからは
私のそばから離さないようにしましょう。
私が守りたい」と話されました。
先生は学生の時から、罪なくして
たびたび牢屋で苦しまれるということを経験されたので、
お母様としては絶対に自分のそばから離したくない
という心が起こるのも、当然なことと思います。
お母様は、兄弟の中でも特に先生を信頼していました。
また愛しておられました。
先生が終戦前から官憲に捕らえられて、
苦しまれたということをよく知っていらっしゃいました。
今度も先生がこういうことになって苦しんでいる
ということを考える時、年取っている身ですが、
乗りにくい汽車に乗って、四〇〇キロも遠い
興南の地まで訪ねてこられたのでした。
☆
それゆえに、帰る時には泣きながら家まで帰って行ったそうです。
そして家に帰ると、「私は再び息子を訪ねない。
また、何も持っていかない」と言われたそうです。
というのは、お母様が真心を尽くして持って行った物を、
先生は御自分では食べられないで、他の人に分けてあげたからです。
それで「心が痛くて痛くてなりません。
持って行っても、他の人に全部あげてしまうから」
というのです。
寂しい心に耐えきれなかったのです。
ですから再び先生の所へは行かないというのでした。
しかし、お母様は次の機会を準備して、
先生の所を訪ねたのでした。
お母様の御家庭は非常に大きく、また農家でしたので、
農作業の面倒も直接みなければならないというように、
いろいろな仕事に携わっていました。
先生のお父様は口数が少なく非常にまじめで、
一つのことを始めたら終わりまでなさるお方でした。
村の人とはそんなに交際することはない様子で、
家のことすべてはお母様がやっておられたようです。
そういう中でも、愛する子供のことを考えて、
差し入れのためにいろいろな食べ物などを準備なさいました。
先生のために何か月もかけて食べ物やら服を準備して、
先生の所を訪ねたのですから、お母様の心は、
先生だけが食べてほしいということであって、
それが自然だと思います。
お母様は先生を本当に愛しておられました。
☆
一九四五年八月に、私たちの国は解放されたのですが、
それ以前、先生は日本で勉強しておられ、
戦争のために故郷へ帰るようになりました。
ずっとさかのぼりますけれども、
先生は四三年八月に短縮卒業され、
韓国に帰る前に、何日の何時に船で帰る、
という電報を打ちました。
ところが韓国に向かうその船(崑崙丸)は、
途中で沈没して、乗客は全員亡くなったのです。
そこでお母様は、電報に書かれていた
先生の乗る予定の船が沈没したというニュースを聞いて、
先生の安否を気遣って気が狂わんばかりになり、
先生に会うために、お一人で八○○キロの道のりを
釜山まで来たのでした。
けれどもとうとう見付けることができず、
気が狂ったような姿で家に帰りました。
夏から秋にかけてのことで、自分の故郷に入る時には、
靴が脱げているのも知らず、裸足で歩いていたら、
やぶのとげが刺さりました。
足の裏がめちゃめちゃになって化膿しても全然気が付かず、
泣きながら故郷に帰ってきたのでした。
その時着ていた着物は、やぶの中で破れてしまって、
一見すると気違いの姿だったということです。
☆
先生は、この世を救わなければならないという
神のお告げのことや、どういう道を歩んでいるのかを、
お母様にも兄弟にも全然話していませんでした。
では、その時先生はその船に乗ったのでしょうか、
乗っていなかったのでしょうか。
それについてお話しします。
先生は、その船で出発するつもりで電報を打って、
その日にふ頭に出掛けたのですけれども、
途中で足が地について動かなくなったのです。
行こうとしたら足がくっついて、
なかなか行けないので、“何か事が起こる”と思い、
その日のスケジュールを変えたのでした。
先生もその船が沈没するとは、気が付きませんでした。
ところがお母様はそれを知らずに、
とても切ない思いをされたのでした。
☆
その上、さらにお母様が心に痛みを感じたのは、
面会の時のお母様に対する先生の言葉でした。
子供がいくら成長したといっても、
母親の目から見れば、いつも幼い子供のように考えるのが通念です。
子供がおじいさんになっても、外に出掛ける時には、
そのお父さんは「体に気を付けて」と言うのが親の心です。
そこで、先生の囚人服、散髪された様子、
自由のない姿、惨めそうな様子を眺める時に、
お母様は最初から涙を流さざるを得なかったのです。
監視する人がいて、自由に話すこともできない
環境で話すのですから、
涙をこらえきれないというのも当然であると思います。
☆
ところがお母様が泣かれるのが、
先生には気にかかったのでした。
本当に愛しているお母様が泣いている姿、
先生に面会するためにいなかのおばあさんが、
忙しい中をやって来たのです。
そして今までの過去のことが連想され、
先生にしてもどんなに心が痛かったことでしょうか。
我が子が苦しんでいることに、お母様がただ肉親の情で
涙を流すのを先生は喜びませんでした。
先生としてはお母様に、「我が子はほかの人とは違うのだ。
神と全世界の人のために立派に働き、牢屋の中でも、
このように苦労をする私の息子は本当に立派である。
元気でいるのが素晴らしい。
勝利して無事に行ってほしい」と
そのように思ってほしかったのです。
そのような涙なら、その涙は受け入れるというのです。
☆
先生はお母様が一、二度面会に行っても、
故郷の親戚とかあるいは父母に対しては
二日(2回と)も安否のお話はされず、
信仰によって結ばれた食口たちのことを、
いつも心配してくださったのです。
それで、はるばる忙しい中を訪ねてきて、
泣いているお母様に対して、先生は
「息子が苦労しているのをかわいそうに思って泣くのなら、
早くお帰りになってください。
そういう涙を見せるならば、再びここを訪ねないでください」
ときっぱりとお話ししたのでした。
面会の時間が限られており、
時間になると厳しく、別れなければならないのでした。
お母様としては、話したいことが
たくさんあったのでしょうけれども、
涙が先立ち、いつの間にか、
話したいことも話せないで帰るようになりました。
本当に人情の厚いお母様の後ろ姿を眺める先生の心には、
どのようにしながら家に帰っていくのだろうか、
家ではどんな心でいるのだろうか、
とお母様に対する情が、いつもいつも誰よりもあったのでした。
このようにお母様は、我が子が正しく、
人のために善いことをしているということを
御存じでしたけれども、
牢屋の生活をするたびごとに、内心、
大きな悩みと心の苦しみを受けたのでした。
平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「先生のお母様の愛」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第四章 天情と人情
「先生のお母様の愛」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
文先生のお母さん(忠母様)の
先生に対する深い愛を感じる文章でした。
今回の証しはご存じの方も多いと思いますが、
直接お会いした元弼先生の証しを通して、
その心情の世界に触れ、胸が熱くなりますね。。。
天情と人情。。。
私もこの証しを通して、
拉致監禁を乗り越えることができました。
偽装脱会した時の親の喜びといったら。。。
偽装脱会したあと、父と銭湯に行きました。
父の背中を流した時、
「身も心もさっぱりする、というのはこのことだ〜」
と言っていた言葉が忘れられません。
しかし、この道にいるということがどれだけ感謝なことか、
霊界にいる父も感じていることだと思います。
なぜ、ここまで迫害されるのに、
愛する親たちから反対されるのに、
ここまでみ旨を歩むのか。
それは、この先生のみ言につきると思うのです。
「今までこういう事をやってきたのは、
御飯がないから…名誉が欲しいから
…誰かが恋しいからそうするんじゃない。
これはたった神様をわかったから、
そなたのその心情がわかったから。
そなたの悲しみというのは我々には問題にならない。
千万倍にもなる。
例に例える事ができない」
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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