李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「苦痛の中での信従」の続きです。
今日は、日本のある教会信徒の証しを通して
お話してくださっています。
☆
死を越えて蘇生した真の自我
アブラハムの運命を見るとき、神はイサクを与えましたが、
与えた息子を再び祭壇にささげるように命じました。
神様が祝福をして、再び取り去ったのです。
ヨブにも神様は財産を与え祝福しましたが、
再び奪い去りました。
ヨブは、息子もまた命までも神に与えましたが、
みな奪われたのです。
そこでヨブは言いました。
「神は祝福を与えることも取り去ることも、
生命を与えてから、死を授けることもできるお方です」と……。
ヨブは本当に忠実に神に信じ従った人でした。
☆
真の自己というものは、
与えて奪い取るとき蘇生するのです。
神様に再び返せと言われる時、
「なんだ、いつかはくれたではないか」と、
自我が頭をもたげてくるのですが、
その時、「はい」と応じる人こそ
自己を無にすることのできた人です。
生命を差し出せと言われるときには、
「はい」と即座に応じるべきです。
神様が創造なさった生命です。
堕落性だけに苦痛の要素が潜んでいるのではありません。
神が取らんと欲する時、躊躇することなく、従うことこそ
正しい十字架を負うことだということができます。
☆
せんだって福良(ふくら)さんが、本当に驚くべき話をされました。
それは、彼の夫人がこの世を去った時の話でした。
彼はその瞬間慌てふためいて、
夫人の死体の前でおののいていました。
(きっと助かるだろうと思っていたので)
祝福されたのちに死ぬなどとは
とても信じられなかったからです。
彼は全身の力が抜けるほど打ちのめされたとのことです。
永遠なる祝福を受けたはずなのに、
なぜこんな惨めな結果に終わるのだろうか、
既に魂のこと切れた妻のなきがらを見ながらも、
絶対に死ぬということはあり得ないと彼は信じていたので、
最後に「これ以上望みがありません」
と宣告されると、気が遠くなったと言いました。
何時間か苦痛の中で身もだえしているうちに、
(文)先生の事情と苦痛を思い、
今の自分の現状とを結びつけてみたとき、
初めて自分の心に新生復活の光が
差してくるのを覚えたとのことです。
先生こそ私の苦痛を救う方であり、救われてみて、
先生こそ偉大なるお方であると思ったそうです。
苦痛の中を通り抜け、新生復活して初めて
先生の真の偉大さを悟ったという、貴重な証を聞きました。
また彼は、神様の苦痛が内的に私自身の苦痛として相通じるとき、
初めてその苦痛圏内から抜け出すことができ、
その喜びは言いようがなかったと言っておられました。
☆
私はここで、あいさつの言葉には
最も気をつけなければならないことを感じました。
悲しんでいる家に行って、
天国に行かれたと喜ぶわけにはいきませんし、
慶事を営む所で、悲しいことですねとも言えないからです。
慶弔の場では、注意深くあらねばなりません。
葬儀の時、福良さんの心情を知らない多くの人はみな、
顔をこわらばせていましたが、
彼は先生の苦痛とぶつかり合って、
死という暗黒の中から復活の光を得ることができたのです。
☆
きょう私がこの話をするのは、
私の苦痛と神様の苦痛が結び合わされる時こそ、
神様の愛による復活がなされるからです。
全人類の苦痛をすべて集めたとしても、
神様の苦痛は比較にならないほど大きいものですが、
苦痛をより多く経験した人こそ、
神様の重荷を負うことができるのです。
子供の悲しみが母の懐で解決されるということは、
お母さんの愛情の温かさが真実なる力をもっているからです。
これと同じように今日の人類のすべての苦しみも、
神の苦痛と置き換えられたとき、
初めていやされるということです。
☆
福良さんは、苦痛の領域から愛の世界に入りました。
これが本当の復活です。
これは自分が求めて得ることのできた愛であり、
苦痛の中を通って神の愛を探し出した人です。
15・苦痛の中での信従
「死を越えて蘇生した真の自我」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「死を越えて蘇生した真の自我」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
「私の苦痛と神様の苦痛が結び合わされる時こそ、
神様の愛による復活がなされる」
これは本当に貴重な言葉だと思います。
私にとって、苦痛なこと、
誰も私のことをわかってくれない、
そのような苦しみを味わったとしても、
同じように苦しんだ方がおられる。。。
それが神様御自身であり、
神様の苦しみを感じることによって、
心情を共有することができ、
解放される、というのです。
だから、どんな苦しみを受けたとしても、
すでに勝利された神様がおられるし、
真の父母がおられる、ということを
どれだけ求めることができるか、
そのことが重要なのだと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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