金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「人情と天情、自己否定」です。
信仰上の「分別」というのは、
人との関係を切るのが目的ではなく、
自分のすべてを否定するのが
「自己否定」ではないというのですが──
☆
(文鮮明)先生は、食口が教会を訪ねて帰る時には、
食口の後ろ姿が見えなくなるまで、
門の所でじっと立って見送りました。
食口がまだ帰って来ない時には、
外に立って待っている先生でした。
そういう先生であるがゆえに、
お母様(忠母様)が帰ったとしても、
親孝行の思いは、いつまでもいつまでも
心から離れるはずがないのです。
☆
皆さんも、神のために決心してやっているのに、
愛する兄弟、愛する友達、愛する親が
この道を理解できないで、家に帰るように、
あるいは一緒にいるようにと言って
涙を見せるならば心が非常に弱くなります。
そして親の所に、友達の所に戻っていく
ということもあるわけです。
もし、教会員が皆様を訪ねて、
「私はどうしたらいいのでしょうか。
家に帰ってきたらいいでしょうか」と尋ねますと、
皆様自身も、どのように指導してあげたらいいのか、
心が弱くなる時があると思います。
我々は人情と天情に対して、こんがらがるときがあります。
☆
元々、堕落しなかったとすれば、人情は天情に通じ、
天情はそのまま人情に通ずるものでした。
ところが堕落した結果、人情と天情は
一致しないものとなりました。
それゆえに、私たちはまず天情を結び、
その次に人情を立てなければならない、
そういう復帰の道を行くようになったのです。
☆
そこで二〇〇〇年前に来られたイエス様も、
私たちに教えてくださったのは、まず
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
さらに自分の命までも捨てて、
わたしのもとに来るのでなければ、
わたしの弟子となることはできない」
(ルカ一四・二六)
ということです。
その事情がよく分かっていたイエス様は
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
平和ではなく、
つるぎを投げ込むためにきたのである」
(マタイ一〇・三四)
と表現しました。
誰よりもイエス様を愛さなければならないことを
教えました。
☆
イエス様との情は天情を意味します。
自分の兄弟や親子との情は人情を表します。
ですから、「私をより愛せよ」とは、
人情よりも天情を立てなさい、ということです。
そういう点をはっきりさせていない時には、
今の私たちであっても、神の道を
まっすぐに行けないことがあります。
この世の中の人情を切ることが目的ではありません。
堕落して汚れた因縁をもっている人情を一度分別して、
天情につながることによって、再び人情を立てるためです。
ですから、過去の自分、堕落した時の自分を
否定することによって、初めて
本然の自分を立てることができるのと同じです。
☆
宗教が自己否定を主張したのもその点からなのです。
しかし、自己否定は本然の自分の否定ではありません。
私たちも、最初み旨の道に入ったころ、
すべてを分別する生活をしました。
親との関係、社会との関係も全部分別していました。
その当初は、兄弟でも親でも
サタンの血統圏にいるように考えて、
分別する生活をしたこともありました。
先生はそのように教えたのではないのですけれども、
私たちにはそういう心がありました。
親子の関係も社会の関係も
全部永遠に切るものだと思いました。
☆
一九六〇年以降になりまして、
たびたび氏族復帰のことを教えられました。
今まで完全に切ってしまっていた関係を
これから復帰しなければいけないということは、
ほかの人にはどうか分かりませんが、
私としては非常に大きな仕事でした。
分別する元々の目的が復帰することであったと、
はっきり分かってきました。
分別する時代は分別そのものに目的があるのではなく、
統一というところに目的があるということが
はっきり分かったのです。
私たちが神の人となるために、
こういう厳しい分別の時代がある
ということを忘れてはなりません。
☆
私たちが、兄弟の中にあって、
間違ったことを見たとしましょう。
私たちはその兄弟が分別できるように、
厳しく教えてあげるのは当然だと思います。
また厳しく分別するように教えなければいけません。
分別する時は厳しいものです。
分別というのは、誰と誰を分別することでしょうか。
何を分別することですか。
間違っている人を分別してあげるとは、
どのようにすることですか。
何を分別することですか。
(悪いことをする思い、邪心)。
ですから、サタン的な要素を
厳しく分別してあげなければいけないでしょう。
分別する目的は何でしょうか。
(サタンを分別するため)。
誰と一つになることですか。
(神)。
☆
ところが、「こうしてはいけません」とか、
「こういうふうにしましょう」という人は、
言う前の気持ちが必ず悪いのです。
それは、真の授受作用*がないからです。
気持ちが悪いというのは、
早く授受作用しなさいということなのです。
だから授受作用するためには、
分別してあげなければならない部分を
取り除かなければなりません。
そうしたら一体化するのです。
その人が好きになるのです。
☆
ところが、現実はそうではありません。
理論的にはそういう結果が出なければいけないのに、
結果としてもっと嫌になるのです。
統一教会を理解していない人たちに会いますと、
皆さんは一体化できません。
ところが、その人の心を変えて、
統一教会に対して正しく理解してもらうと、
その次にはどうなりますか。
一つになります。
その人が好きになります。
それ以前に、私たちを理解できないで
反対していた時には、皆さんは一つになれませんでした。
その人に対して気持ちが良くなかったからです。
☆
私たちがその人に原理を教え、教会を教え、
神の道を教えるということは、結局は
理解できない部分を取り除いて一体化するためです。
人に話してあげるのは、一体化することに目的があります。
皆様が忠告してあげても一体化できないということは、
目的を達成していないということです。
ですから、一体化までが目的地だということを
はっきりと分かってほしいのです。
話をしてあげただけで、その人に対する
忠告が終わったと考えてはいけません。
神のみ言を中心として、私と相手が一体化して
非常に気持ちが良いという立場まで到達しなければいけません。
平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「人情と天情、自己否定」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第四章 天情と人情
「人情と天情、自己否定」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
*授受作用:統一原理で説明している発展の原理
『原理講論』には以下のようにある
「主体と対象とが・・・良く授け良く受ければ・・・
生存と繁殖と作用などのための力を発生する」
『原理講論』には以下のようにある
「主体と対象とが・・・良く授け良く受ければ・・・
生存と繁殖と作用などのための力を発生する」
神様は目には見えないお方です。
ですから、神様はいない、と否定する人もいるし、
神様を信じる人たちにおいても、
その捉え方は様々です。
私たちは、文先生が出会われた神様を信じます。
その神様は私たちの親であり、
真の父母である、というのです。
その神様の願いを果たすためにこの道を歩んでいますが、
たとえば、愛する両親に反対された時、
どのように対処していくのか、
ここで人情と天情、という言葉が出てくるのでしょう。
拉致監禁・強制改宗など信仰を脅かされる場合には、
やむを得ず一時的には、親の愛(人情)を
否定しなければならないことがあるかもしれません。
反対する人たちとの関係を切ることは、
今、家庭連合では勧められていません。
私たちの信仰にとっても、
とても微妙で高度な問題だと思います。
間違っていることは間違っていると、
はっきり伝えていかなければなりませんが、
しかし、いずれは天を中心に一つになる、
そのための期間であることを思っていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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