2022年10月31日

祝*昨日は6500双34周年 日韓の溝を埋める大祝福、マッチング(カップル誕生)の証し

韓日の怨讐関係が終わった?! 6500双、開始1週間前!! (祝福エピソード65篇)1





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10月は祝福の月と言われるように、
777双は21日に52周年、
6000双は14日に40周年を迎えたということですが、
昨日は、6500双祝福記念日でした。

34周年、おめでとうございます!

韓国と日本の多くのカップルを生んだ
歴史的な「交叉(こうさ)祝福」が成された
6500双、その意味とは──

本部の家庭局(当時)で長年、局長をされた
倉本正彦先生の証し。
いつ、マッチングが始まるのか……
祝福式1週間前までのエピソードです。


その年の夏ごろから祝福が近いと言われていました。
日本からは写真の準備を進めていました。
でも、噂はありましたが、具体的な連絡はなかったのです。

マッチングが行われるのか、韓国の家庭局に打診してみました。
「お父様の指示はない」との回答でした。

それで、「日本から写真を持ってきたらどうか。
お父様に『日本から来ています』と言ったら、
お父様はマッチングをしてくださるのではないか」
そのように言われました。

それでスタッフと相談し、10月中旬に韓国に出発したのです。

大きなキャリーバッグに一杯写真を詰め込みました。
案の定、空港に到着して、税関に詰問されてしまいました。
韓国の家庭局から空港に連絡をしてもらい、
説明をしてもらいました。
納得したようで、無事に通過できました。

漢南洞公館に行き、写真を整理しながら、
お父様の指示をお待ちしていました。
しかし、一向に指示がありません。

お父様には韓国に到着した時にご挨拶したので、
私たちがいるのを知っておられます。

韓国家庭局からも
「今回はマッチングはないのだろう。
だから帰ったらどうか」
そのように言われてしまいましたので、
仕方なく、帰る準備をしていたのです。


そうしたら、お父様が
「マッチングを始める」という指示をされたのです。

10月22日のことでした。
マッチング会場に向かいました。
そこは、京畿道龍仁(ヨンイン)のメッコール工場でした。

会場には韓国の候補者が続々と集まってきました。
そして、翌日10月23日にマッチングが始まりました。

この時には、「祝福式が〇日にあります」
と言われていなかったのです。
皆様もご存知のように、実際には10月30日に行われました。

ちょうど1週間前でしたが、
この時には、会場も準備されていませんでした。

この時、韓国の人たちは2000名来ました。
また、日本人も250人ほど来たのです。
留学生や韓国に仕事に来ている人たちなどです。

お父様は、マッチングに来た人たちにみ言を語られました。
その時に語られたのは、『交叉祝福』に関してのみ言でした。

朝8時から夜8時の集会でした。
お父様は、次のように語られたのです。


「交叉とはどういう意味でしょうか。

 交わって一つになるということです。

 交叉して怨讐関係が終わるということなのです」



88年ソウルオリンピックがありましたね。
これは東西の和合した、記念すべきオリンピックでした。

その年の10月3日、お父様は世界統一国開天日を宣布されたのです。
国と国が交叉する時代を迎えました。
交叉しなければ、統一国は生まれないんです。

皆様もご存知のように、
韓国と日本は怨讐関係ですね。
アダム国家とエバ国家がそのような関係です。
その国同士が、全世界を代表して
交叉しなければならないわけです。

それは、祝福によって交叉するというのです。


祝福結婚は交叉結婚とも言うことができると思います。

祝福の理想は極と極ですよね。
二人のタイプが反対なのです。
例えば、子供が生まれない家系と生まれる家系。
また、早死にする家系と長生きする家系を組み合わせるとか。

祝福結婚自体が交叉して平準化していくものです。
恨みを解いて一つにしていくのです。

どのようにして国と国が交叉することができるでしょうか。
怨讐の国を自分の国以上に愛するのです。

そのことを通して、神様が主管する新しい統一の国が生まれます。
そうすることにより怨讐が無くなるんです。
怨讐が無くなることでサタンがいなくなって天国の門が開くのです。

文責:ten1ko2


交叉祝福により、怨讐(恨み、敵として憎むこと)がなくなる・・・
文先生のなされることは素晴らしいですね。

韓国に嫁いだ日本人女性たちの努力で、
家庭や地域で社会的な影響を与えているとはいえ、
日本と韓国における関係が
よくなったのか、と言えば、必ずしも
そのようにはなっていないのが実情でしょう。

おそらく、今も韓国では
反日の教育が成されていることでしょうし、
日本においても、韓国に対する感情は
あまり良くないものがあったりします。

だから、私たち家庭連合も
韓国から出発した、という点において、
特に今の状況を通しても、
反日団体、というレッテルを貼られています。

文先生がいかに日本を、
世界を愛してこられたでしょうか。

一つになることによって、世界平和を実現しようという
その深い心情を理解するからこそ、
文先生夫妻の分身として、
6500双の方々は、日本で、韓国で世界で、
人類の融合のために活躍してくださっています。

あらためて6500双の祝福記念日
おめでとうございました。



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posted by ten1ko2 at 10:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 祝福の価値 祝福の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月30日

神様を実感できない、そんな私への絶妙なアドバイスは── 「自分のことも祈りなさい」 




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右端が申美植先生


77双の前川浩子先生の誌上説教
「感謝と笑いの生活」より、
とても貴重なお話です。


神様を実感できずにいた私は、申美植(シン・ミシㇰ)先生
〔崔奉春(チュェ・ボンチュン)〈日本名・西川勝〉宣教師夫人、36双〕
に相談すると、このように言われました。

「自分のことも祈りなさい」

「あなたはもっと自分のことを
神様に祈らなければなりません。

人間を創られたのは神様ですから、
私という人間を創り変えるのも神様しかいらっしゃいません。

自分のことを神様に祈らなければ、
神様もあなたに関心をもって
干渉することができないんですよ」


びっくりしました。

統一教会(世界平和統一家庭連合)は神様と人類、
世界、国家のために祈るところだと考えていたので、
祈祷では、常に心にもない
公的なことばかりを祈り、疲れ果てていました。

この3年間、自分のためになど、
一切祈ってこなかったのです。

歩めども、生まれ変わるどころか、
ますます自己中心的になっていた私でした。


美植先生は、神様に聞かれる祈りと
聞かれない祈りがあることも教えてくださいました。

人が天に向かって祈るとき、
最も自己中心的になります。
祈りながら、我知らず
自分の要求ばかりをしてしまうというのです。

「最初からそのように祈ると、サタンが喜びます。
それでは、何年、祈りを捧げても神様は聞かれませんよ」
と、神様に聞かれる祈り方を教えてくださいました。

まず、悔い改め、公的に祈るということです。


祈りは、悔い改めから出発します。

私たちは自分でも知らないうちに罪を犯しています。
ですから、心から神様の前に悔い改め、
(ゆる)しを請えば、赦される道があります。

最初に、アダムとエバの堕落について
悔い改めるようにと言われました。
人間の不幸がここから始まったからです。

アダムとエバの堕落が、神様を悲しませ、
人間世界をめちゃくちゃにしてしまいました。

次に「公的な祈りをしなさい、み旨のため、
教会長のため、兄弟姉妹のため、夫のため、
子供のために祈って、それから、
謙虚な心情で自分のことを祈るように」と言われました。

「原理的な祈りは、
原理的な神様に聞かれる」と知りました。

前川浩子(777双)
『祝福家庭』78号(2015年 秋季号)
誌上説教
感謝と笑いの生活
(blessed lifeより)
http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/484780492.html
↑昨年紹介した記事
同じ説教の前編になります


前川先生のように、古い先輩たちは、
ただひたすら、神様のみ旨のことを思い、
公的な祈りを捧げ続けたのだと思います。

しかし、「自分のことを神様に祈らなければ、
神様もあなたに関心をもって
干渉することができない」というのです。

神様を信じない人でも、
困難な壁にぶち当たったとき、
自分の力ではどうすることも出来ないとき、
思わず「神様!」
と呼び求めることがあると思います。

公的な祈りを捧げつつ、
私自身の祈りをしていく、
原理的な祈りを心掛けていきたいと思います。


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2022年10月29日

周藤先生が、礼拝説教の途中で逃げ出した証し・・・そこから説教のカリスマに?! 




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周藤先生の誌上説教
「天の父母様が働かれる清い器」を紹介します。

説教の途中で逃げ出してしまった…

私が日曜日の礼拝を担当していた頃のことです。
当時、私は「このような話をすれば参加者は感動するだろう」
と思い、十分に準備して説教に臨んでいました。

ところがその礼拝において、
話せば話すほど苦しくなってきたのです。
大きな声を出しても冗談を混ぜても、何の反応もありません。

いたたまれず、私は途中で説教をやめてしまい、
まともに挨拶もせずにそのまま礼拝堂を抜け出したのです。

それから聖地に行きました。
そして、「きょうはどうして食口(シック)たちを
復興させることができなかったのでしょうか?」と、
天の父母様(神様)に尋ね求めました。

必死で祈る私に、一つのみ言が与えられたのです。

「カインがカインだけのときは、自分がカインであることを知らなかった。
自分とは違うアベルが来て初めて、
カインはカインであることを知った」と。

己の醜さに気づいたとき

それは、「自分が汚れているときには
自分が汚れているということが分からず、
アベルという清い者が来たときに初めて
自分が汚れていることに気がつく」ということでした。

参加者を感動させようと思って説教に立った私には、
自分の栄光のことしかなかったのです。

清い神は、汚れた私の“我”意識に相対することができず、
私という汚いパイプを通じてでは、神様の生命が
食口たちに流れることができなかったのです。


私は聖地で祈りながら、自分自身を振り返りました。
そして、私が、自分の栄光だけを求め、
「認められたい。賛美されたい。褒められたい」
という動機で説教していたことが分かったのです。

さらに自分の位置を離れるといった堕落性などの
問題がたくさんあることにも気がつきました。

それから一週間、自分自身の醜さとの
血みどろの闘いが繰り広げられました。

静かに淡々と、ありのままを語る

やがて翌日の朝を迎えました。
絶叫するような気持ちで祈りました。

すると、ふと一つの思いが湧いてきました。
「何も立派なことを語らなくてもいい。
ありのままを語ればいいのではないか」

説教の時間がやってきました。
私は説教壇に立ち、口を切りました。

「先週は本当に失礼しました。
説教を失敗してしまい、私は皆さんの所から逃げました。
皆さんと顔を合わせることができなかったからです」

その後、一週間の自分の心の葛藤を話しました。

「私は今まで、皆さんが感動する立派な話をしようと思って、
一所懸命準備してきました。
しかし、立派な話をしようと思えば思うほど、
うまく語れなくなりました。

結局、それが自分という『我』だったのです。
自分の栄光のため、自分が認められたい、
自分が賛美されたいという我の塊だということにやっと気がつきました」

すると、あちらこちらからすすり泣く声が聞こえ始めました。
ありのままを話しているのに、みんなが涙を流して聞いています。

前は声を張り上げて話したのですが、
今回はむしろ小さな声で、淡々とありのままを話しただけなのです。

清い器となったとき、神が働く

礼拝が終わりました。

ある女性がそばに来て、涙を流しながら
「感動しました。ありがとうございました」
と声を掛けてきました。
その人はいつも私の説教に対して批判的な人でした。

その後、その説教の内容が印刷され全国に配布されました。
この説教に関する多くの(感謝と感動の)手紙が届きました。


自らの醜さに打ちのめされた私は、
「我」に振り回されていた自分の姿をありのまま語るだけでした。

しかし、そこに神様が働いてくださり、
聴く者の耳に、心に、命の息を吹き込んでくださいました。
神様が臨んでくださったのです。

私たちの使命は、いかに私心のない純粋な心で
神様のみ言を伝え、神様の生命が通過できる通過体、
神様の清い器になれるかということだったのです。

どんな活動においても、自分を通して
神様が働かれるかどうかだったのです。
自分が私心のない、清い神様の器になっていれば、
清くなったぶんだけ、神様が働いてくださるのです。

生命は“私”から来るのではなく、
清い神の器を通じて、神ご自身が与えてくださるのです。

周藤健(43双)
『祝福家庭』77号(2015年 夏季号)
誌上説教「天の父母様が働かれる清い器」より
一部割愛しています。


あの周藤先生が礼拝説教で逃げ出されるなんて・・・
とても率直な証しでした。
み旨を歩む動機、心情の重要性を感じさせていただきました。

かつて、済州島での周藤先生の修錬会に
参加したことがありました。

その時に聞いた周藤先生のお祈りは、
心に響く祈りでした。

幼子の祈りのように、
とても純粋で率直なお祈りでした。

証しのような体験を踏まえて、
さまざまな曲折を経て、
清い器になられたのだな、と思います。

私自身も比較的、人前で話すことが多い立場ですが、
本当に口下手で、嫌になることがあります。

しかし、周藤先生の証しに励まされました。
清い器になることを努力していきたい、と思うのです。




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