2022年10月01日

50年前、父母様との登山の思い出*母の愛に癒された証し 《真のお母様、感謝します*飯野先生》



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777双家庭、飯野貞夫先生の証し
「父は厳しく、母は優しく」です。


1972年9月、日本のリーダーたちが訪韓し、
真の父母様とご一緒に雪岳山(ソラクサン)
登ったことがあります。

当時はまだ、観光地として
十分整備されていない登山道でした。

真のお父様の健脚は予想できましたが、
真のお母様がお父様と手をつなぎながら、
足場の悪い急坂のでこぼこ道や、
よじ登らなければならない岩場も、
さっさっと軽快に進まれる姿に驚いたものです。

私も少しは足腰に自信があったのですが、
この時は付いていくのがやっとでした。

頂上に登り切った時、既に父母様は、
仲良く大きな岩の上に座って、
私たちの到着を待っておられました。

私が汗を拭っていると、
「飯野君、何か歌を歌いなさい」と
お父様から声が掛かりました。

私は歌が下手なのですが覚悟して、
お母様もご一緒なので韓国語の歌がよいと思い、
その頃覚えた「オンマヤ ヌナヤ」を歌いました。


歌い始めてすぐに、お父様が
「発音が違う。カンビョンサルヂャだ」と注意してくださいました。

でも、私には違いが聞き取れないのです。
いろいろと口の中を変化させて発音しても直りません。
すると今度はお母様が、私の目の前で
「カンビョンサルヂャ」と笑顔で発音してくださいました。

私は、顔を30センチくらいまで近づけながら、
お母様の口元を見て真似をしました。
お母様は根気よく五回ほど発音しながら直してくださいましたが、
やはり駄目で、とうとう父母様に大笑いされてしまいました。

集まってきた韓日の幹部たちも一緒になって笑っていましたが、
私は笑われて恥ずかしいというより、とてもうれしかったのです。
駄目と分かっても、一生懸命に私の発音を
直そうとしてくださった父母様の愛を感じたからです。


それから10年近く経った1980年、ご相談したいことがあり、
手紙をお父様に差し上げたことがありました。
すぐ呼ばれてアメリカに行き、
ニューヨークのベルベディアに伺いました。

何かお父様からお話があるかと思ったのですが、
到着のご挨拶をした日に「一人で来たのか」
と聞かれた以外は何も話されず、
厳しい雰囲気のまま数日が過ぎました。

私はみ意(こころ)でなかったと悟り、
悔い改める思いで断食を始めました。

しかし、父母様を中心とした幹部十数人の
朝食のテーブルに着かないわけにはいかず、
参加していました。

お母様が食事をしない私を目ざとく見つけ、
そばに来て優しい言葉を掛けては、
食事をするよう勧めてくださいました。

相変わらず、お父様は厳しい目で見ておられます。
でも、お母様は、しきりと私を慰め、励まし、
時に肩や背中をそっとなでてくださり、
心を癒やしてくださいました。

父は厳しく、母は優しくという
典型を見るような心の出会いでした。

お母様に救われるようにしてから数日が過ぎ、
お父様から新しいご指導を賜って、ようやく解放されました。

あの時、お母様がいらっしゃらなかったら、
いや、いらっしゃったとしても、
お父様と同じように厳しく接しておられたら、
私には居場所がなかったと思います。

母の愛に救われ、生かされたことを忘れることができません。

真の子女様を愛する以上に、カインの子女としての
私たちを愛するという蕩減復帰の原則に立ち、
心情の十字架を越えて、毅然として
私たちの前に立ってくださったお母様。

真の母として、日夜、私たちより
はるかに凄まじい血のにじむ苦労をしながらも、
食口のために祈り続けてくださったお母様。

そして、それは今も変わりなく続いているのです。


【お父様がお母様について語られたみ言】
神様が心配される必要のないお母様、
与えすぎてかえって神様のほうが心配されるぐらいに
天性的に生まれついているということは、
母としての性格を備えているのです。
(『真の御父母様の生涯路程』E 213ページ)


やはり、父母というのは、厳愛、慈愛の両面を
感じられることがありがたいと思います。

今は、『厳しい父』である文先生がおられなくなり、
韓総裁が父母の役目をしなければならないので、大変です。

日本の状況を思い、涙を流さない日がない、と言われていますが、
これは、母の愛情から来ているものである、と言うほかないです。

父母の愛の中に生かされている私であることを自覚しつつ、
歩んでいきたいと思うのです。。。





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