2022年10月02日

座って何もしないと死んでしまう 仕事(責任)は自分のため 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》




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文鮮明(ムンソンミョン)総裁と李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生


仕事(責任分担)に関する、ちょっと深く
真剣なお話です。

李ヨハネ先生のみ言、
「結実時代」から2コマどうぞ。 


自分のための仕事

何を任されても、「自分」というものを
離れて仕事をするのではないのです。
どんな摂理を担当しても、「自分」がやるのです。

何をやっても、
自分が成長、発展しなくてはならないのです。
仕事のための自分ではなく、
自分のための仕事なのです。

「自分は自分であるのに、
仕事によって自分を失ってしまう」。
人生において失敗する人がいますが、
原因はそこにあるのです。

同じ仕事をするとき、習慣的にやってしまい、
また、新しい仕事を担当すると、「新しい」
「知らない」「初めてだ」という観念で、自分を失う。
いろいろな場面で自分を失うのです。

先入観的、習慣的にやって、また、新しいからといって、
また、その仕事自体を学ぼうとしながら
自分を失って仕事をするから、信仰的にマイナスになる。
心霊にプラスにならないのです。

「自分」は「愛の実体」、
「心情の実体」と言ってもいいでしょう。

ですから、喜ぶために暮らしている、
心情を生かすがために暮らしている「自分」なのです。


    
心情法則

私たちが運動、仕事をするのは、そうしないと
自分の体を健康に保てないからです。

食べて、仕事をしないで、
じっと座っていると自殺をする。

足と手に、私たちの生命のポイントは全部結ばれています。
だから、「歩け、出て仕事をせよ」と、
こういうふうに神様は私たちを創造されたのです。

結局、仕事、活動をするのも、
自分の生命を本来の生命にするためであり、
生命論から見ると、食べるために働くのではなく、
お金のために働くのではありません。

信仰者は、心情論から見て、何のために活動しているのか。
自分の心情を本来の心情にするためです。

自分を本来の自分に、自分を価値化するための責任分担です。
これがポイントです。

仕事のための自分とか、お金のための自分だとか、
目的のための自分だとか、そうではなく、
目的は「自分」が目的であり、
神様の目的も「自分」です。


神様は私たちを造るとき、それは絶対のみ言で造られたので、
私たちは、絶対、み言的に暮らさなくてはならないのです。

造られた原則に違反すれば、すぐに
体と心情がぶつかり、苦痛になるのです。

「心情が平安である」というのは、
心情法則に合致したときにそうなるのです。

心情法則に違反した場合、必ず不安や、
恐怖や、減少感を、敏感に感ずるようになっているのです。

ですから、私たちは仕事を通じて自分を喜ばせれば
力が出るようになっているのです。

仕事を価値化して、自分の心霊を喜ばす。
相手を中心として、相対によって自分を成長させる。
これが私たちです。

 
自分は何のためにこの責任を担当したのか
と心配するよりも、正当に、正しく
自分の価値を求めながら成長している自分なのか、
本当に情にあふれて暮らしている自分なのか、
生活を通して具体的に価値を発見して心情を刺激する自分なのか、
これを知らなければ何もできません。

これを知らない者はみな、偽者であり、人をだます人です。

例えば、教会長がいるとします。
自分が学んだ知識を人に教えるのみで、
自分自身を伝道しないのです。
これは偽善者です。

ですから、今の宗教は全部偽善です。

メシヤが来ても、それを知らないのを見れば、そうです。
イエス様が来られても、ユダヤ人までも知らなかった。

本当に自分の心情のために暮らしたのならば、
説明を聞かなくても、イエス様をすぐ知るようになっている。

良心をもっていれば、愛をもっていれば、
愛の豊富な方を、すぐ知るようになっています。


私たちの心情は、どれほど敏感でしょうか。

お母さんたちは、子供には正しいことを言っても、
子供の欠点を見て、自分は泣かず、
「子供が悪い」と思っている母親は、偽善者です。

自分が産んだ子がしくじったのに、なぜ涙がないか。
自分の欠点を見て心配しない者は、これは偽善者です。

自分に欠点、過ち、罪、癖がありながらも心配しない者、
知っていながらもその癖を繰り返す人には、教育はできません。

神様もどうすることもできないのです。

 
神様が、「取って食べるな」とおっしゃったのはなぜか。
自分に責任をもてということです。

心情をもった者に対して、
「心情に対して自分が責任をもて、
心情にマイナスになることをやるな、したなら心情が死ぬ」
と言われることを、エバに対して、
「取って食べるな」とおっしゃったのです。

責任をもっている者がそれを勝手に取り扱えば、絶対に死ぬ。
私たちは、肉体の生命と霊人体の生命をもっていて、
内外とも、自分の責任をもっているのです。

16.結実時代
「自分のための仕事」「心情法則」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


「仕事」を「神様のみ旨」と捉えて読んでみました。

この道に導かれた時、み言に感動して復活して歩みました。
なにもかもが、新鮮でありました。

いつしか、慣れてしまい、感動も薄れてしまい。。。
さらに、今の家庭連合への過熱報道により、
気持ちを上げることも難しい状況なのが現実です。

しかし、心情を復活させることは、「私の責任」なのです。
私自身を価値あるものとして捉え、
強い信念と信仰をもって、
今、この時の試練を乗り越えていきたい、と切に思うのです。


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posted by ten1ko2 at 08:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする