愛は与えて忘れなさい。
与えたものを覚えておくと、
必ず返してもらいたいと思うようになる。
与えながらも覚えまいと努めなさい。
文鮮明
☆
与えたものを覚えておくと、
必ず返してもらいたいと思うようになる。
与えながらも覚えまいと努めなさい。
文鮮明
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金元弼(ウォンピル)先生の
安昌成(アン チャンソン)先生についての証し、
1991年の説教から紹介します。
☆
今、安昌成(アン チャンソン)先生のお話を聞きましたが、
その内容はあまりにも私の実情からほど遠いので、ショックを受けました。
しかし私は、そのお話で語られたような人になっていくために
最善を尽くしたいと思います。
安先生がおっしゃったように、
私も地上ばかりでなく霊界にあっても
神と真の父母に侍っていきたいですし、
また、真理を愛し真理と一体化していらっしゃる
安先生に侍っていきたいと思います。
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私と安先生との関係について話しましょう。
彼が初めて文先生に出会った時から因縁をもち始めて今まで、
私と彼の責任分担は分かれていますが、
心情の世界においては常に、彼からこれとこれを
学ばなければならないと思い起こしてみ旨に邁進しています。
安先生は私たちの教会の最初の青年学生部の責任者で、
初期のころ何度も城跡に登って
み旨を心配しながら話し合ったことなど、
たくさんの思い出があります。
また家に誘われて食事に招待されましたし、
安先生の親御さんは私の面倒をよく見てくれました。
特に彼のお母さんは私の好物を覚えていて、
その時期が来るとそれを料理して送ってくださいました。
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また安先生は人に良く尽くしてこられて、
自分はとても質素な生活をしながらも、
人には貴重な物をあげていらっしゃいました。
私も讃美歌とか良い本を買っていただきました。
ところが、私が安先生に良い物をあげると、
自分でそれを持たないでみな人にあげてしまうので、
私の堕落性のゆえですが、
あげる気持ちになれないことがありました。
文先生のお母様(忠母様)が、
ろう獄に入っていらっしゃる先生を訪ねられた時に、
先生のために食べ物を準備して持ってきたのに、
目の前で先生がそれを全部人々に分けてあげるのを見て
非常に心痛く感じられて、
「もう再びそれを持ってくまい」と考えられたそうです。
私は安先生との体験を通じて、
そうしたお母様(忠母様)のご心情を
よく理解することができました。
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文先生はそのような心が起きることに対して、
次のように原理的に説明されました。
「もしあなたが私に何かをくれたとするならば、
それは以前はあなたの物であったが、
今はあなたの物ではなく私の物です。
ですから私の物を私があげたい人にあげるのは
私の自由です。
にもかかわらずあなたが寂しいと感じるのは、
それを今もなお自分の物と考えているからです。
ですからいったんあげたからには、
だれにあげたとしても、
それに対して寂しい思いをもってはいけません」
と。
寂しく思うのは、他の人にあげてからも
それをずっと干渉しようとする堕落性があることを意味しています。
ですから文先生は、ために尽くしたら
それをいつまでも覚えているのではなく忘れなさいと言っておられます。
☆
それで私は、安先生がもらった物を
たとえすぐに人にあげたとしてもかまわないから、
「あげたいと思った時にはもっとあげよう」
と自分に言い聞かせています。
そして、安先生は今まではそうなさいましたが、
これからはそれを卒業して自由になられたので、
何かあげた時にはそれを
大事にしていただきたいとお願いしたいです。
なぜならば私は既にそうしたことを学んだので、
もし私が何かあげたならば
それを自分で用いていただきたいと思います。
このように私は安先生と一緒にいなくても
安先生の良い点を考え、そこから学んでいます。
1991年9月12日
ドイツ・シュミッテン修練所(四十日修練会)
ドイツ・シュミッテン修練所(四十日修練会)
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安昌成先生のことをふと思い出して、
記事にさせていただきました。
安先生は、原理講師として有名であり、
文先生から、「1時間講義する前に3時間祈祷した」
と証しされるほど、精誠を尽くされた方でした。
金元弼先生と安昌成先生とのやり取りもとても勉強になりますが、
それにもまして、文先生の証しもとても重要だと思いました。
本当の「ために生きる」姿がどのようなものか、
与えて忘れる世界、その心情圏に到達できるように、
日々、精進していきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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