入山部長の統一原理より、
今回は、「神が信じられない理由(後)」です。
☆
第1講座 神の実在
神が信じられない理由(後)
神が信じられない理由(後)
第三に、神の沈黙に対する疑念です。
これは、「神は、人(私)が苦しんでいるとき、
助けを求めたのに助けてくれなかった。
だから神なんか信じない」
という人生経験から来る不信感です。
自分の求めに沈黙する神に対して
絶望したことが原因になっています。
皆さんの周りで、断定的に
神の存在を否定する人がいるとしたら、
もしかしたらこうした過去の経験が
原因になっているかもしれません。
その人も、もともとは
神を信じていた人だったかもしれないのです。
☆
ここで例に挙げてみたいのは、皮肉なことですが、
進化論の生みの親といわれる
チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)です。
あまり知られていないことですが、ダーウィンには
10人の子供がいて、子煩悩な良い父親でした。
ところが、その子供の中でも特に可愛がっていた
長女のアニーが、10歳のときに熱病にかかってしまうのです。
その頃のダーウィンは教会にも通っている
クリスチャンで、神を信じていました。
ですから、娘のために熱心に祈り、
あらゆる治療を施しました。
しかし、努力の甲斐(かい)なく、1年もの
闘病生活の末に亡くなってしまったのです。
ダーウィンはひどく落胆しました。
☆
ダーウィンの玄孫(やしゃご)であるランドル・ケインズ氏が書いた
『ダーウィンと家族の絆』(白日社)という本があります。
サブタイトルには、
「長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ」
と付けられています。
原題は『ANNIE'S BOX』です。
それは、アニーが大切にしていた、「お道具箱」のことです。
それをダーウィンは生涯大切に持っていたというのです。
どれほどアニーを愛していたか、そして
その死がどれほど耐えられないものであったかが伝わってきます。
この本には次のようなことが書かれていました。
☆
ダーウィンは自然の中に神を発見する自然神学者であり、
神を信じる信仰者だった。
しかし、(愛娘の死に)絶望したダーウィンは信仰に疑問を持つ。
「神はなぜこのような悲しみを与えるのか?
これが神の思(おぼ)し召しとは思えない。
そんな無慈悲な神など信じたくない」。
ダーウィンはその日から教会に行かなくなった。
そして猛然と研究に没頭する。
そのテーマは、「自然闘争」──
この世は無慈悲な世界であることを証明しようとした。
ガラパゴス諸島でヒントを得たダーウィンは、
8年後に『種の起源』を世に発表する。
ダーウィン臨終の言葉は、「神様!」だった。
☆
あまりにも簡単なあらすじですが、ダーウィンが通過した
悲しみ、苦しみが伝わってきませんか?
彼もまた、「神の沈黙」から来る絶望により、
神を見失ったのです。
このように、その人の思想の背景には、
その人の人生経験があるのです。
入山 聖基・著
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第1講座 神の実在
神が信じられない理由(後半)
(blessed lifeより)
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第1講座 神の実在
神が信じられない理由(後半)
(blessed lifeより)
☆
ダーウィンも以前は、神様を信じていたんですね。
実は、共産主義思想の出発ともいえる
マルクス主義を打ち立てたカール・マルクスも、
ユダヤ教徒からキリスト教に改宗しなければならず、
社会から孤立せざるを得ない状況になり、
恨みをもってしまうことになりました。
ダーウィンもマルクスも、
結局、神様を否定しただけでなく、
恨みの境地に至ってしまいました。
進化論も共産主義思想も、
神様を否定するところから出発しています。
神様が人間の苦労や不幸に対して、
どうして手を差し伸べることができず、
沈黙したのでしょうか。
ダーウィンが我が子を病気から救うことができなかったように、
親は子のために何でもしてあげたいと思いますが、
時に無力です。
親なる神様も、どうすることもできなかった
事情があるのではないでしょうか。
根源を否定する、というところから、
本当の真理を見いだすことができないと思います。
神様は目に見えないけれど、明らかに存在している、
そのことをこれから紹介していきます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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