李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「結実時代」の続き、
「自分が自分を救う」です。
☆
今まで、キリスト教では、
「イエス様が救うのだ、メシヤが救うのだ」
と思ってきています。
しかし、絶対、救うことができません。
自分が自分を救うのであって、
他人によって自分が救われるようにはなっていないのです。
学校へ行って勉強するのも、自分がするのであって、
先生が代わりにしてあげることはできません。
先生は教えはするけれど、学ぶのは本人であり、
お母さんも代わりに学んであげることができない。
☆
ですから皆さんも、将来何を担当しても、
自分は自分らしくしなくてはいけません。
そうなれば、自分のようになりたいという後輩に対して、
指導するのは問題ではないのです。
自分が健康であれば、自分より弱い人を
助けるのは問題ではありません。
自分が力をもてば、自分より力のない人の荷物を
持ってあげるくらいは問題でないのと同じです。
人をどうするか、どう教えるか、どう伝道するか、
そんなことは心配しないで、自分をどうしているのか、
本当に神と因縁をもったその因縁が
具体的に何をもって自分を喜ばせているのか、
それを心配すべきなのです。
☆
具体的に心情を喜ばせるには、
「これだ!」と具体的に悟らないと、
心情を喜ばせることはできません。
漠然とした知識、漠然とした信仰では、
自分の心霊はあいまいになるのです。
何によって、自分は力を得て暮らしているのか。
きょうの生活の中で、
何が自分に貴重であると悟らされたのか。
きょう何をおいしく食べて、力を維持しているのか。
心情の食べ物も同じです。
何が自分の心情の糧になって喜んだか、
これが具体的でないと、心霊は成長しません。
み言によって動機を得て、育てなければならないのです。
☆
神様は御自身の責任として、神様と因縁を結んだ人たちに、
時が変わればいつも、その時と、
時の内容を教えてくださるのです。
「今の時はこうだ、摂理はこうだ、
霊界はどうするつもりだ」、
これを教えるのが真の親です。
私たちの先生もそれを教えてくださいます。
それを聞いた者は、自分の生活で、
この時はこうで、私たちのもつべきは何で、
どう合致すべきかを悟り、受肉しなければなりません。
教えられたものを、自分の生活で
どうおいしく食べるか、時のポイントを知って
自分の心霊に力を与えるのは、本人です。
☆
神様は私たちを、心情の本性に戻らせ、
「私は神様のものだなあ」ということを実感させるのです。
それでは、神様の者ならどうすべきでしょうか。
それは、神様と約束を結び、神様との条件をつかまえて、
神様の事情を悟って、自分を悟って、
徐々に自分を実らせるのです。
皆さんは今まで相当神を学んできましたが、
これからは自分を学ぶ時代です。
牧会のポイントは、神と自分との関係、
この動機、関係さえはっきりしたなら、
別に先生はいりません。
何の教条もいらない。
本当に自分の心情の路程において、
自分で価値を発見する人には、メシヤはいりません。
絶対法則によって育て上げるように神様は造ったからです。
するなということをしなければ、死ぬようなことをしなければ、
否定的なことをしなければ、
本当に満足して心情にあふれて感謝して暮らせるし、
完成するのは絶対的であったのです。
16.結実時代
「自分が自分を救う」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「自分が自分を救う」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
確かに、自分ですべて解決しようとする人には
メシヤも、神も必要ないと考えるでしょう。
しかし、神やメシヤを必要とする人たちにとっても、
ただただ「主よ救いませ」と言っているだけでは、
神もメシヤも救うことはできません。
まず、私がみ言で復活し、復興する、
その心情が大事なのだ、と思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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