入山部長の「幸福な人生には原則があった」
今回は、『神を知る方法』です。
☆
第1講座 神の実在
神を知る方法
神を知る方法
それでは、一体どうしたら神を知ることができるのでしょうか?
神をとても遠い存在のように思うかもしれませんが、
実はそうではありません。
むしろ、「近すぎてわからない」と考えたほうがよいでしょう。
ある見方に気がつけば、誰もが神を知り、
出会うことができるのです。
その方法を、三つに分けて紹介します。
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@心を見れば、神がわかる
人間は誰もが心を持っています。
「心ない人」はたまにいますが、
「心がない人」は一人もいないでしょう。
その心に良心と邪心という、二つの心があります。
邪心は人間を自己中心的にし、
悪の欲望に走らせるように働きかけますが、
完全に悪に支配されません。
それは、もう一つの心である良心があるからです。
この良心は、善からずれることがありません。
私の心が悪に向かうと、「良心の呵責(かしゃく)」を覚えさせて、
悪を行わないよう止めにかかります。
そして実際に悪が行われてしまった場合には、
その後にも心に痛みを与え続けて後悔させようとするのです。
罪を犯してうまく逃げた犯人が、自分の心の痛みに
耐えかねて自首してきたという話がよくあります。
良心はそれほど強い力で人を善に向かわせる働きをするのです。
☆
このため、良心は実に不思議な心だということで、
一時はヨーロッパを中心に、多くの学者たちが
真剣にこの「良心」を研究したようです。
ドイツの哲学者カント(1724〜1804)もその一人です。
彼は著書『実践理性批判』に、こんな言葉を残しています。
「静かに深く考えれば考えるほど、ますます常に新たに、
そして高まりくる感嘆と崇敬との念を持って、
心を満たすものが二つある。
それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である」
彼の心を満たした「わが上なる星空」とは、
絶対に変わることのない宇宙の法則であり、
「わが内なる道徳律」とは
絶対善なる良心であると言えるでしょう。
この両者が心を満たしているというのです。
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このように多くの学者や宗教者が良心を研究しましたが、
その心がどこから来たのかを知ることはできませんでした。
絶対善なる神がおられ、
人間を創造したその証拠が
皆さんの良心に残っているのです。
皆さんも自分の良心に問いかけてみてください。
「あなたは何者なのですか?」と。
その心の中に、神の存在を発見することができるでしょう。
入山 聖基・著
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第1講座 神の実在
神を知る方法
(blessed lifeより)
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第1講座 神の実在
神を知る方法
(blessed lifeより)
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原理講論に、良心作用に関しての記述があります。
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。
どんな悪人であっても『良心の呵責』が生じます。
悪いことを行った時、なんの負債も感じない人はいないでしょう。
ということは、良心に働きかける
『ある主体』があり、
その良心の主体が、『神』である、というのです。
万民共通の良心の主体=神がおられる、ということは、
どれほどの希望でしょうか。
神様は、私たちの良心を通して、復帰の摂理を為さる、
ということも希望でしかありません。。
邪心を分別して、神様が働かれる良心を中心に
日々の生活を送れる、
私たちになっていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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