李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言。
「結実時代」から、今回は、『自分の心情の声を聞く祈祷』です。
☆
では、どういう時、自分の本性の心情に
マイナスになることをやっているのでしょうか。
目で見た生活、耳で聞いた生活、
それから血統を原因としての生活、
これが結局、自分の本性を堕落させ、
心情を発展させないのです。
祈祷というものは、
自分の心情の声を聞くためのものであって、
口先でわいわい大騒ぎしながら、神様の耳に
自分の話を聞かせるためのものではありません。
「自分」を知って暮らせば、
神様の創造した「自分」を聞いて暮らせば、
神様のものになることは、
絶対的に決まっていることなのです。
しかし、心情にいつもプラスする生活を
知らないので、霊人体を育てにくいのです。
皆さんが今、霊人体がどれほど悟って、
神の事情を実感するか、
み言をどれほど体恤したかは知りません。
その本人しか知りません。
人が言っても仕方がないのです。
☆
先生に会う数カ月前に、釜山で霊通者たちが私に、
「あなたは素晴らしい方ですね」と言うのです。
そう言われても、私が私をどうするか、
自分が自分を知らないのに。
あとになって、先生にクリスチャンとして
私が一番先に会ったので、
その人がそう証したのだと分かったのです。
☆
また、無視されたにしても、自分が自分の欠点を知って泣くほど、
本当に胸が痛いほど、自分の価値を自覚したのならば、
何でもプラスになります。
皆さんの欠点を言っても、自分が欠点を悟った時より、
悔い改めの動機にはなかなかなりません。
自分の罪を知っていないのです。
心情が鈍くなっているのです。
☆
ですから私たちは、神と因縁をもった
その因縁を生命視して、それを失わずに、
崩さずに、サタンに奪われずに、
打撃を受けずに暮らさなければならないのです。
自分の心情に希望の力を蓄えて暮らせば、
自分の生活の中で価値を求められるのです。
原動力をもてる。
希望の力をもった人が、自分の生活の中で、
もっと希望の力を得るのです。
希望をもっていない人は、生活に打撃を受けて
マイナスになったり、少しあったものまで奪われてしまうのです。
たくさんある人は、たくさんもらえる。
愛の世界では、そうであるという聖句があります。
愛の本質をもった人は、苦痛があっても
無視されても、かえって自分に価値を得るのです。
☆
結局原理的に説明すれば、み言によって、
心情の本性に作用しながら、刺激させながら、
み言の味を味わいながら、自分を喜ばせて暮らすのです。
できれば、食事が三回あるから、
三回ぐらいは喜ばせなくてはなりません。
朝起きて、み言を悟って感謝。
そして昼ごろ、午前中の仕事を通じ、
み言的な秘訣を悟って喜ぶ。
それから、午後の生活においても、
その心情を基盤として、勝利したその結果をもって喜ぶのです。
☆
今は闘う時代というよりも、
もうける時代、実る時代です。
今は秋、結実時代。
自分も蓄えて実る時です。
それから、あまり自分の秘密を、
自分の喜んでいる内容を話さない時です。
絶対言わないで、隠して、自分の心情の力とならせるのです。
何かをおいしく食べたなら、吐き出さないように、
食べたものは秘密にしておかなければ力になりません。
牛がはんすうするように、
人間も言葉を学んで生活を続けるのです。
そして、み言でもう一度消化しなくてはならないのです。
それは、生活そのものをみ言的に考え直しながら
仕事をしなくては、自分の心情の糧を得られないからです。
それが皆さんの生活の中で、自分の心霊を育てる方法です。
16.結実時代
「自分の心情の声を聞く祈祷」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「自分の心情の声を聞く祈祷」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
ヨハネ先生のみ言は、
言葉の表現が独特で、
少し解釈が難しいことがあります。
個人的には今回もそんな印象をうけますが、
要するに、最近私も取り上げている、
自己牧会プログラム=良心に尋ねる生活
このことなのではないか、と思います。
祈りを深めて良心を啓発して、
み言の訓読も、そこに一日の糧を得るためであると思い、
自分で自分の心霊を育てることが
できるようにしていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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