2022年10月22日

約束を守る男、文鮮明──そうすれば、代わりに新しい人が現われる 《金元弼先生》




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「天情と人情」の最終回、
「約束の永遠性と誠意」です。


約束が成し遂げられるまでには、
必ずある期間を経過しなければいけません。
約束は、未来の目的を成就しようとして、
今するのです。

時同性があるのです。
ですから約束をした主体と対象の二人の人は、
必ずその約束を守っていかなければならない
過程をもっているのです。

相手が途中で破ったとしても、こちらが
目的地まで完全に守ったというところまで行くならば、
完全なるプラスには完全なるマイナスが
自動的に現れるのと同じく、
神はその代わりに新しい人を準備するのです。

ですから、アダムが上まで上がったとして、
エバは途中で堕落した場合に、神は
もう一人のエバを採用してくれるということになります。

だから約束を破った人が問題なのではなく、
約束を守る人が問題になるわけです。

神から見れば、一方の人が最後まで約束を守ったならば、
別の人を立てることができるのです。

ところが、どちらも守れない時には、
神の基盤がありません。
そこでまた二人を造って出発しなければならない
ということが起こるわけです。

すると神の摂理は延長されますか、短縮されますか。
それは延長されます。
一人だけでも守ってくれれば、その人によって
延長しないで、順調に進めることができるのです。

一人が約束を完全に守るならば、
相手がたとえ守らなかったとしても、
もっといい相手が現れるということです。


夫婦でも同じです。
一方が約束を守らなかったとしましょう。

しかし片方は「私はこの相対者を求めて
幸せな家庭をつくる」という心を変えずに、
約束を守っていくならば、代わりの者が現れて、
理想家庭をつくるという目的が、
結局は成り立つようになるのです。

ところが、「世の中はむなしい、信ずるものがない」
と言って、二人ともそうなれば、
その家庭から幸せは生まれないでしょう。

ですから、先生が今まで歩んでこられた道は、
たとえ兄弟が先生を信じないで教会を出ていくとしても、
常に約束を守られたので、人は代わっても、
いい人がどんどん現れて、摂理が成し遂げられてきたのでした。


先生と私たちの約束には、必ず神とサタンがいる
ということをお話ししました。

その例え話として一つ挙げましょう。

一九六七年、先生は韓国の幹部の一行を連れて、
日本に行かれた時に、当時、日本の兄弟に祝福を予定していました。

ところが先生は日本を離れる時に、
一つの儀式を行いました。

それは神の前で、「日本の祝福を
延長しなければならない」という儀式でした。

先生も神様に、「これをこうします」と必ず報告して、
それがそのとおりにならない時には、
必ずその理由を説明して、変えていかれるのです。

教会員がリーダーと約束して、
「私はきょう、いつまで、どこどこへ行ってまいります」
と言いながら、事情によって
それができない場合はどうしますか。

世の中でも、それができなかった理由を
必ず話さなければいけません。
それもできなければ、リーダーは教会員を信頼できなくなります。

 
韓国で、先生は聖日の五時に敬礼式をされて、
必ず私たちに説教してくださいました。

本部教会から相当離れた所に清平があります。
そこにおいでになりました。
その次の日は聖日でしたので、そこから出発して
本部教会の礼拝に参加されることになりました。

その日は、たくさんの人たちが集まるようになっていたのです。

先生は早めに出発しましたが、
雨が降って船やもろもろの状況によって、
何分か遅れるようになりました。

そこで先生は、約束の時間に遅れる時には、
約束を守れないことに対する
お祈りをするとおっしゃいました。

その日、先生は、「公的な約束の時間を守れない時には、
その時刻から悔い改めの祈りをしなければいけない」
と話してくださいました。

このように約束とは大変なことなのです。
先生御自身がそのようにして守っておられるのです。


二番目に、「あなた方は時間を約束したにもかかわらず、
まだ全員集まっていない」と指摘されました。

心情的にも時間的にも外的にも、
先生御自身としては約束を守っているということを、
はっきり証してくださったのです。

事情が変わって遅れたけれども、
先生はその前に既に出発していたことを、
はっきり証されているのです。

分かりやすく言えば、オックスフォードから
ランカスターゲートまで、一時間半かかるのでしたら、
先生は、一時間半前のさらに十分前に、
もう出発しておられるのです。

しかし、途中で車が故障して遅れました。
それで約束した時間になりますと、
先生はその時から悔い改めのお祈りをされるということです。

「私が遅れたがゆえに、この人たちは今、
この時間に待っているでしょう」と言って、
その人たちのためにお祈りをするのです。


ところが私たちはどうでしょうか。
より上の立場の人は遅れるのが普通だと思うし、
それが権威あるものと考えています。
先に来るのは下の者だと考えるのです。

皆さん、そういうことはありませんか。
約束を守らなくても、何の呵責も感じないでしょう。
私たちがそうだから、メンバーもそうなるのです。

にもかかわらず、メンバーが遅れたら、
「なぜ遅れたのか」としかります。

先生は、こういう外的な時間の約束も
そのようにされるとするならば、私たちは
永遠なる生命を懸けての約束に対しては
どうすべきか、考えてみてください。


足の折れた朴正華さんのことを聞いたでしょう。

先生が牢屋から出られて、平壌に帰られた時には、
その人は足を打たれて骨が折れて歩けない状態でした。
彼は自分のお姉さんの家に一緒にいて治療していたのです。

そしてお姉さんの家庭が避難する時に、
足が折れている彼を連れていくことができないので、
置いたまま行ってしまったのです。

一人で残されたら殺されてしまいます。

それで先生は心配して、彼の故郷まで問い合わせて、
居所を調べ出しました。
そして私が彼を連れてきて、先生に会わせました。

その後、その太った人を自転車の上に乗せて連れてきたのです。

ところが、先生の愛する母親、父親、兄弟姉妹は
全部、北におられました。すぐ近くの所でした。
しかしその人たちを連れてこないで、
朴さんを連れてきたのです。
そういうことは、できることではありません。

先生は神との約束を守ったのです。
朴さんとの約束を生命を懸けて守ったのです。


約束というものが、どんなに難しいか分かると思います。
世の中のすべての問題は、
約束を守らないことから起こるのです。

そして、いつも考えなければならないのは、
約束はお互いが幸せになるためのものだということです。
それゆえに、約束をする時には、一方的にしてはいけません。

ややもすればリーダーになった人は、
一方的に約束を強要することがあります。
そうではなくて、相手を「そうしましょう」
という立場に必ず立たせて約束をするのです。

ですから必ず相手の話を十分に聞くようにしてください。

皆様はいいアイデアをもっていて、
教会員が全然頭も上がらないような人であっても、
教会員の意見を先に聞いて、それから自分の意見に納得させ、
「それじゃ、私の考えよりも、
あなたの考えはもっといいです」
という立場に立たせて話していくのです。

自分がしたくてしたような立場に立たせなければなりません。
そうでないとプッシュされたという印象を与えます。
プッシュというのは、自分の意志がないということです。

平壌開拓から興南解放
第四章 天情と人情
「約束の永遠性と誠意」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「世の中のすべての問題は、
約束を守らないことから起こる」
これは大変重い言葉だと思います。

個人的なことですが、私はある約束を放置していました。
とんでもないことをした、と深く反省しています。
もちろん、清算するための条件が必要であります。

文先生は約束を守るために、
真剣であり、切実です。

果たせなかった場合、
それが自分の責任でなかったとしても、
神様にとりなしの祈りをささげられるのです。

「約束」ということに対して、
誠意をもって、対していく。
改めて考えさせられました。






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posted by ten1ko2 at 08:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする