2022年11月27日

「私の責任じゃない」これが、すべての元凶だった! 犬以下にならないためには 《蝶野部長*精誠篇2》C




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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」続きです。


原理的に少し見ていきます。
まず蘇成・長成・完成という、この責任分担、
これは私の責任として、5%としてあるものですね。

(この4本線見ると眠たくなる人がいるんですけどね。
太極旗みたいなこの性相と形状のぐにゃっとした
丸いやつと、この4本線これ見ると、
グーッとなる人が多いと言うんですけど…。)

これは、私の責任として完成していくところです。5%。
ところが堕落によって、責任が不履行に
なってしまったわけです、これもわかりますね。

堕落というのは、神様を不信して堕落した
ということでもあるんですけど、
責任分担を果たさなかったということです。

この時にアダムとエバが、私の責任だ
と言ってればよかったのです。
ところがアダムはエバのせいにし、
エバは蛇、天使のせいにした。


天使には責任分担がありません。
使命分野はありますが、自分の人格を
完成させるという責任は、天使にはないんですよ。
もしあったら人間ですよ、それは。

(人格完成する責任は)創造性だから。
天使は創造性がないからね。
来た光に対して反射するというのはある。

犬でも餌をもらったら、尻尾を振るという、
もらったものに対して返すというのは、
これは万物のレベルです。

人間だけが、分かってもらえなくても
わかってあげようとする、と、これが創造性、
神様ご自身に似た部分ということです。


誘惑することは、天使がしたのは悪いのですが、
つまり、責任のない天使が堕落というのは
(エバが)誘惑されなければ、堕落はなかったのです。

大学の試験に滑ったのは、
試験のせいではなく、本人のせいでしょう。

天使に誘惑されて堕落したら、
それは天使のせいじゃなくて、本人の問題です。
それは、自分の責任分担ですから。

もし天使に責任があるのなら、
95%と3%と天使2%という原理だったはずです。

ところが先天時代というのは、
サタンに対する敵愾心を持たなければ、
越えられなかった時代です。
だから、天使のせいにしながら生きました。

それは教育の方便です。
原理ではそんなこと絶対ありません。

天使には堕落を成立させる力はないのです。
愛の減少感を持って誘惑するところまではできますが、
しかし(人間が)応じなければ堕落はないのです。

つまり堕落を成立できる力は、
人間の方にありました。
なぜなら、100%のうち5%と95%。
神様と(人間)95%と5%で、
ほかには天使のパーセンテージがないんですから。


しかし我々は堕落することによって
万物級になったんですよ。

分かってくれたらわかってあげましょう、
夫婦も、「あんたも私のことを分かってくれたら、
私もわかってあげる用意はあるんだ」とかね、
ワンちゃんとか、万物級になったんですよ。

これが天使の血統に陥ったという証拠です。
そうですね。
で、原理を聞いて、自分の配偶者とか、
子供とかを要求して裁く。。

結局、天使もそうです。
み言をもって人間を讒訴しながら、
神様を讒訴するのです。
天使もみ言で讒訴します。

私に適用するのが人間なんです。
人に適用したら万物になるということです。
ワンちゃんになるということですね。
(ワンちゃんなら、かわいいかもしれませんけど。)

万物のレベル。
(責任)不履行になる。


ところがアダムとエバはそこで、
「おいらのせいじゃない」
「アタイのせいじゃない」と言ったんですね。

で、誰が引き受けたのですか?
ご存知のように、天使が引き受けました。

「悪魔という名前でもようござんす」
と言って引き受けました。
だから「この世の君」になったわけです。
責任を引き受けたものが、王になります。

その過程で、責任を感じている人が、
その中心人物です。
わかりますね。

で、この悪魔が、「この世の君」になってしまいました。
聖書の中に蛇として、 堕天使として
紹介されてもいいと(言って引き受けました)。

ところが聖書がいくら広まっても、
天使は、サタンは、余裕です。
キリスト教会がいくら増えても、
サタンは余裕のよっちゃんです。


なぜかというと、(天使の)責任分担は書いてないからですよ。
俺が悪者だと紹介してくれと、
これは人間に責任分担があるということを
かき消すものなんです。

聖書というのは、これがあるので
サタンは余裕なのです。
蛇が悪い、蛇が騙した、天使が騙したことでいい、
その教えで行けと言うんですよ、天使は。

その教えが定着している限り、
人間は責任分担がわからないから、
人のせいにして一生は終わるようになります。

人のせい、家族のせい、天使のせい、
先祖のせい、神様のせい・・・。
サタンは余裕なんですよ。


だからこの責任分担論を
もう1回はっきりさせておかないといけないのです。

責任転嫁したということが問題です。

「取って食べてはいけない」というのは
聖書的内容から言えば、(正確には)
エバが聞いていたのではなくて、
アダムが聞いていました。

つまりエバを兄妹姉妹の愛で
主管しないといけなかったわけです。
夫婦の愛ではなく、兄弟姉妹の愛で。

ところがアダムは、エバが私を誘惑したんだとして、
また、エバは責任転嫁しました。
相手の責任だと言った、これが大事件です。

もう一回言います。
責任のない者が責任を負って、
責任のある者が逃げました。
これがご先祖様の、
一番最初の我々の共通のご先祖様です。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


責任分担論を発見されたお父様、
どれほど素晴らしいことでしょうか。

私たちは、歴史的な秘密、
真理中の真理を聞いているのですが、
それほど大切なことだからこそ、
4本線を見ると眠くなるのでしょうか(笑)。

私たちの先祖が過ちを犯したのですから、
責任を持たなければ、
いつまでもサタンの世界、つまり
誰も責任をもたない世界が続くということになります。

私たちもアダムとエバの血を受け継いでいるので、
私たちは、人のせいにする、
という堕落性を持っていて、
自分の責任である、という思いが
すぐに抜けてしまいます。

人のせいにしながら、
自分は間違っていない、と、
それをまるで当然のように思ってしまいます。

これは、人間のもつ癖でしょう。
受け入れることは、簡単ではないかもしれませんが、
事実ですね。

誰かがしなければなりません。
私の家、周囲にも問題はあります。
まず責任心情を持つことが、
復帰の歴史を大きく解決していくことに
つながると思うのです。






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2022年11月26日

天活のすゝめ最終回☆ 天国の極めつけ、夫婦は文字通り「一心一体」! 《浅川先生》




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浅川勇男先生の『“天活”のすすめ〜
天国への準備はできていますか』
いよいよ最終回です。

夫婦愛を深める

夫婦が愛し合えば触れたくなり、
抱きかかえたくなります。

心だけではなく、
肉身も一つになろうとします。
夫婦愛は愛の極致であり、究極の愛です。

しかし、愛で一つになりたいと願っても、
肉身では、夫の体の中に妻が入りこむのは不可能です。
ところが、霊人体は可能です。

妻が夫を愛すると、夫の体に
折り重なって入ることができるのです。
文字どおり、一つの体、一体になるのです。

 
文鮮明先生は、次のように言われます。


「霊界に行けば、本当に一心同体になった
 夫婦は、いつでも男性が女性と一つになり、
 女性が男性と一つになることができます。

 女性の中をのぞいてみれば男性が入っており、
 男性の中をのぞいてみれば女性が入っています。
 神様の二性性相と全く同じです」



「天国」では、夫婦が真の愛で合性一体化するのです。

あたかも、酸素と水素が化合して水になるように、

夫と妻が愛で合性一体化すると、神様化するのです。
夫婦が一体化した姿は、まさしく神様の姿なのです。
真の愛で完全に一つになれば、
神様に似るようになるのです。

神様の最大の力は創造力です。
夫婦も真の愛で一体化すると、
神様のように創造力を発揮するのです。

神様が宇宙を創造したように、
夫婦も願うものすべてを創造できます。
住みたい住居、食べたい食事、
着たい衣服、すべてを愛で創造します。

あたかも創造主である神様があらゆる種類のものを、
真の愛の概念を中心として新たに造り出せるように、
愛を中心として本来の力を発揮して、
すべてのものをつくることができるのです。


プラスの電極とマイナスの電極が接続すると、
電流が流れ、光と熱を発するようになります。
光と熱は神様の愛です。

夫婦が愛で合体すると、愛の電流が発生して、
人生の道を照らし、冷えた心を温めるのです。
夫婦愛の電流が、家族、親族、地域に、
愛の光と熱を広めるのです。

天国に入るために、夫婦は互いに愛を磨き、
深めなければなりません。
伴侶の喜びを自分の喜びとし、
伴侶の悲しみを自分の悲しみとし、
伴侶の願いを自分の願いとすれば、
愛で一心同体になるのです。
それが“天活”なのです。


「霊界を知って、そこに合わせて
 生きることによって、
 この世の中を離れるときに、
 神様のみ前に行って天国と
 関係を結ぶことができるのであって、                                                                                                                                                                                            
 そうでなければ不可能です。

 ですから、霊界に対する事実を
 はっきりと知らなければなりません」
(天一国経典『天聖経』「地上生活と霊界」769ページ)

浅川勇男・著
(光言社刊『“天活”のすすめ〜
天国への準備はできていますか』より)
第五章 天国への愛磨き
「夫婦愛を深める」
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=16719
(blessed life)


天国では夫婦が一つである、と言います。
まさに一心同体、お互いが完全に一つになる、というのです。

かつて、新國婦人の証しを書いたことがありましたが、
霊人体のお父様が、お母様の体にはいって、
ぴったりとくっついて一つになった。
ということでした。

まさに今、お父様はお母様と一つであり、
そのまま、霊界でもともにおられるんだな、と感じます。

私たちも、配偶者といつも一緒でいられることが喜びである、
と感じていけるように、
今から、一心同体を目指していきたいと思います。

浅川先生、霊界に関して、詳しくわかりやすく、
説明してくださり、ありがとうございました。


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2022年11月25日

苦労の中でも、神は私たちを救おうとされる 脱北前の40日路程 《金元弼先生》




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1950年9月ソウル☆


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「四十日間の弟子訪問」です。


先生はそれから後、平壌で因縁をもっていた
弟子たち一人一人を訪ねられました。

霊能者やメンバーたちが教会から離れていたことを
よく御存じでありながら、直接訪ねて行かれました。
直接行けない時は、人を遣わし、
私が行くこともありました。

年を取って病気になっている人にさえも、
「先生が無事に牢屋から出られた」ということだけでも、
一々全員に知らせるようにしました。

このことは、大変重大なことです。
なぜか分かりますか。
人と人の交わりではなく、神の前で
永遠を誓って交わった関係だからです。


その人たちは一人も牢屋に訪ねて来ませんでしたが、
霊的にも先生は知っておられました。

面会に来る弟子から、メンバーたちが離れていった
ということを聞いて御存じでしたけれども、
先生は相変わらず二年八か月の間、
一日も抜かさないでお祈りされていました。

その人たちとは、先生が直接因縁をもったのですから、
直接会ってみて先生を受け入れるならば問題はないのです。

受け入れられなくても、直接会って確かめない限り、
因縁を切ることはできないのです。
それは本当に難しいことです。


平壌にとどまっていた期間は四十日でしたが、
先生はお帰りになっても、どういう苦労の
生活をしたかということは全然お話しにならないのです。

その間ずっと弟子を訪ねて、先生が帰って来られた
ということを知らせて回ったのです。
中には反対する人もいましたが、
先生は全員を訪ねてお話しされました。

それゆえに、そういう人たちが霊界へ行っても、
讒訴することはできないのです。

 
先生の父母、兄弟、親戚は故郷にいるのに、
そういうことは全然気にかけていないように
振る舞っていらっしゃいました。

三日もあれば訪ねていける所に
いらっしゃったのですが。
先生の心情の中には父母、親族を思う気持ちは
誰よりもあると思います。

けれども先生は、み言によって、
天の因縁で結ばれた食口たちを
見舞うということを先に立てたのです。

 
先生は、刑務所から出て平壌に帰られてから
三日ほどして、二、三人を周りに集めて、
牢屋から持って来られた米の粉を出しました。

それは先生に外から差し入れられたものでした。
牢屋の中に米を差し入れる時には、
焼いて粉にしました。

牢屋での食事の問題は、非常に重要な問題です。
先生は牢屋を出て平壌に来るまでの道のりを、
ひもじくとも食べ残したものをそのまま持って来て、
私たちに分け与えてくださったのです。

普通の人だったら全部なくなっているはずなのに、
先生はそれを残したのです。

「牢屋の中ではね、名日(節日、祝祭日)なんかには、
米の粉でもちを作って、分けて食べるんだよ」
と説明されながら、先生御自身が
その米の粉に水を混ぜて練られました。

練るのは手ではなく、先生が刑務所の中で
作られたおはしで練ったのでした。

もちを作ってから、残っている食口に
一つ一つ分けてくださいました。


こういうのを私たちに見せるのは、
御自分がそのように苦労なさった
ということを見せるのが目的ではないのです。

苦労の中にあっても、神が私たちを救おうとされるように、
御自分が食べたいものも全部食べずして、
食口たちに食べさせてあげたい
という心情で分けてくださったのです。


それを見ていると、先生の刑務所での生活は
追われる生活ではなく、もっと苦しい生活を
追求する生活だったということをつくづく感じました。

苦しい生活の中にあっても、自分の生活、
生命はどうなるのだろうかという
危機迫る生活ではありませんでした。

人類をどういうふうに救おうかと考えられ、
また人類をして復活の忠誠を示させんがための
余裕ある生活をしたいという思いで
生活されたことが感じられました。

牢屋の中では、人類を救わんがために、
どういうふうにしなければならないのだろうかと、
ひたすら天のみ旨に走っておられた
ということをつくづく感ずるのです。


先生が残っている者たちを呼び集めて、
その米の粉でもちを作って食べさせてくださった
という話をしました。

「ああ、そのようにしたんですね」と
皆さんは受け取るかもしれませんが、
そこには深い意味があります。

囚人たちは、生命よりも食べ物を大事にします。
けれども、先生は食べたくとも食べないで、
残っている者に何かをおみやげとして
あげたいという心をもたれたのです。

私たちはそのお心を
とても大事にしなければならないと思います。

死ぬか生きるかという中にありながら、
自分と因縁を結んだメンバーに、あるいは
霊の子女に何かをあげたいという心、
大事な物をおみやげとしてあげたいという
先生の心を、最も学ばなければならないと思います。


皆さんが教会員に、あるいは兄弟に、
本当に大事にしているものをあげたとしたならば、
その教会員や兄弟は、どのように考えるでしょうか。

私たちは大抵、使って余ったものや、
持っている物の中から贈ります。
先生の場合は、ないところから
あげようとするお心なのです。

聖書の中にも、お金持ちのたくさんの献金よりも、
貧しいやもめのレプタニつの献金の方が、
もっと価値あるものだといわれているのは、
そういうところからなのです。(マルコ一二・四一〜四四)。


レセプションなどに行ってみると、
ドネーション(寄付)という箱があります。
開けてみると中には何もありません。

これは神が喜びません。
そういう心を基台としては、
神は教会を祝福することはできません。

センターに行けば、ドネーション・ボックス(献金箱)もありません。
祝福を受けるためには、
受ける器を作らなければいけません。
心のドネーション・ボックスを作るのです。


兄弟に与える先生の贈り物が、
どれほど貴重であるか分かると思います。
自分のポケットの中からというのは、
これはギフト(贈り物)ではありません。

ギフトというものは、あらかじめ
全部聖別して、人にあげる時にも、
「これは本当に少なく、足りないものです」
という心を合わせて差し上げるものです。


先生のなさることは、すべて一つ一つが
原理的な生活であることが分かるようになったと思います。

私たちが子女の立場に立っている限り、
絶対に先生は安息できないということを、
皆さんは考えなければいけないと思います。

子女を持っている父母は、休む時間がないのです。
子女が父母の身代わりにならない限り、
父母を絶対に休ませることはできません。

父母の身代わりになるには、
父母の心情を自分のものにすることです。
そういう立場に立てば、
先生を絶対的に安息させてあげることができます。

ですからぜひとも早く私たちが、
先生自らが私たちに示してくださった
勝利の路程を勝利して、栄光を先生に
返さなければいけないと思います。

先生が御苦労されて得たこの栄光を、
神と先祖と子女に返そうというのが父母の心情です。
私たちは逆に、その栄光を
先生に返す心情をもちましょう。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「四十日間の弟子訪問」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
一部誤字誤植編集(文責:ten1ko)


神様を何よりも愛していかれたお父様。。。

だからこそ、神様との因縁によって出会った人たちを
貴く、大切にしていかれたのだと思います。

私たちも、この道に導かれなければ、
決して出会うことのできなかった人たちとの
交わりがあります。

私も公務をさせていただいていますと、
日常茶飯事的に、様々な人たちと
接する機会があります。

それは、とても感謝すべき環境ですが、
時には、人間的な思いで、見てしまったり、
裁きの思いで見てしまうこともあります。

その都度、反省はしていますが、さらに
もっと深く反省しなければならないと思います。
その人は神様が送ってくださった人である、
そんな思いで見つめ、
接していきたいと思うのです。




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