2022年11月21日

なぜ人間の不幸を放置するのか 神は不公平、そもそもいない?! 《神の沈黙と救い1》




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故・野村健二先生の1996年の著書、
「神の沈黙と救い〜
なぜ人間の苦悩を放置するのか」より
「まえがき」と「プロローグ」を
お送りします。


  神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、
  神はなぜ沈黙するのか。

  今だからこそ、先人たちが問い続けた
  歴史的課題に向き合う時かもしれません。

  25年以上も前に書かれた本ですが、
  読者の皆さんにとって、必ずや
  学びと気付きを得られる一冊になることでしょう。
 
(一部、編集部が加筆・修正)
まえがき

一見すると、世の中には実に不公平なことが多い。

一生懸命努力してもさっぱり報われなかったり、
ひたすら信心しても何の御利益もなかったりする
一方で、適当に面白おかしく遊んでいる人や
悪事を働いているような人のほうが
大もうけをしてのうのうと暮らしていたりする。

そうしたことを目の当たりにすると、
「なんと神は不公平なお方か」
「神はどうして黙ってばかりいるのか」
と文句の一つも言いたくなるのが人情であろう。

あるいは「そもそも神なんていないんだよ」
と開き直る人も少なくないだろう。

本書は、こうしたことに対する
一つの解答を試みたものである。

このテーマは宗教と深くかかわる内容ではあるが、
宗教の外にいる人にも非常に興味深い内容である
と思うので、神学的で、いたずらに綿密な論証よりも、
一般的で分かりやすく読めるようにということを
念頭に置いて論を進めたつもりである。

1996年6月
野村健二

プロローグ
神はなぜ「沈黙」するのか?

遠藤周作の『沈黙』は今から30年ほど前に書かれ、
映画にもなり、一大ブームとなった作品である。

切支丹弾圧の頂点にあって
神が何も手を差し伸べてくださらないのを見て、
ついに踏絵を踏むに至るいきさつと
心理とが詳細に述べられている
真摯(しんし)な意欲作であった。

だが一体なぜ今「神の沈黙」を取り上げるのか?


歴史上の大きな節目の年、
西暦2000年まであとわずか。

東西の二極対立も東欧・ソ連の崩壊によって
一応解消した。
しかしそれに代わってユーゴ、中東、チェチェンなど、
民族紛争や宗教紛争はいまだ継続し、
むしろ激化している。

日本においては、サリンによる無差別大量殺人が
宗教・真理の名において行われた。

一体神はどこにおられるのか?
大体神はお一人なのか?
イスラエルとイスラムが、あるいは
イスラム同士が双方神の名において
戦争しているのを見ると、こんな疑問さえ胸をかすめる。


ハルマゲドンなどというキリスト教用語が
一般に用いられるようにもなった。

世界最終戦争は米ソの対立の解消によって一応、
決着がついたように思われるがどうなのだろう?

周知のように、ノストラダムスは1999年7月に
世界の破滅の時が来るということを予言している。


世界は今大きく統一の方向と
分裂の方向に動いているように思われる。

そのうちEC(欧州共同体)の統合、
ローマ教皇と正教大主教、ユダヤ教
などとの握手は統合の方向であり、
ソ連やユーゴの分裂はその反対の傾向を示すものであろう。

個人生活の次元では、まだ中高生のいじめによる
自殺が後を絶たない。

エイズでは、非加熱血液製剤によって
血友病患者その他への感染が問題となっている。

就職戦線は依然として超氷河期である。
オーストラリアでは、観光客が34人も
無差別に射殺されたというニュースも入ってくる。


全知全能の神がおられるのなら、
こうした状況をなぜ野放しにして黙っておられるのか。
これが世紀末の世相に対しての偽らぬ感慨である。

どんなに信仰しても、祈っても、さっぱり答えがない。
神や仏などというものは実在しないのではなかろうか。

信仰深い人が自動車の衝突で頭がい骨陥没で
単純な作業しかできなくなったり、
(がん)に侵されて40歳足らずで亡くなったり……。

何も悪いことをしていないのに
この人たちだけがなぜ、と思うことも多い。


こういう問題に対して諸宗教はどう答えるであろうか。

西暦2000年はイエス・キリストの生誕から2000年、
釈尊から2500年、今終末・末法の時代といわれ、
新宗教、新・新宗教の勃興を迎え、
第3次宗教ブームといわれるさなかに
オウム事件が起こり、そのとばっちりで
宗教一般の信用も大きく傷つけられた。

本書は、この神の「沈黙」という現象について、
これまでの宗教(主にキリスト教、聖書)の解答を
検証しながら、沈黙の理由についての
新しい解答を提示しようとするものである。

 
人間は何のために生きているのか?
これは科学によって答え得る問題ではない。

自分で自分を存在あらしめた者がない以上、
人間は自分を存在あらしめた存在、すなわち
神にその意味を問うてみざるを得ない。

その意味からして、神が存在するか存在しないかは、
特定の宗教をもつか否かにかかわらず、
すべての人の根本問題であるはずである。

また、オウム事件の長期にわたる報道によって、
自分が宗教とどうかかわるか、
本物と偽物をどう見分けるかが問われている今、
その宗教がこの神の沈黙の理由について
どう答えているかということが、
一つの重要な判断基準となるであろう。

野村 健二・著
(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

神の沈黙と救い 1
プロローグ〜神はなぜ「沈黙」するのか?
(blessed lifeより)


遠藤周作の「沈黙」
私も好きな小説のひとつです。

神はいないのではないか。
なんで、困っている時に助けてくれないのか、
沈黙に込められた無念なる思いがあります。

今の私たちの現状に対しても、
同じような思いを持ったりします。

しかし、神はいないのではなく、
沈黙せざるを得ない事情がある、
そのことを訴えかけているのではないでしょうか。

次回からの投稿を楽しみにしたいと思います。





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2022年11月20日

どんな映画や音楽よりも感動的! 旧統一教会の「み旨」の道 《自己牧会プログラム》




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自己牧会プログラムの体験談より、
「み旨はもっと感動的だ」です。

(女性 50代)

自己牧会プログラムを基台(教会の小グループ)のメンバーと共に
学ばせていただき、実践を始めています。

心が解放されて、16年ぶりに伝道しよう
という気持ちになった姉妹もいて、
実践すれば何かが動き出すと感じています。

私が今、心掛けているのは、光を投げ放つことと、
自分の心情を実況中継しながら、
自覚を取り戻して心の整理をすることです。

日曜日の朝、1週間の出来事を自分で
実況中継しながら整理しています。

1週間を思い出すと、
「この時は心が痛かったな、痛みを感じているな」
「この時うれしかったな、喜びを感じているな」と、
その時の自分を客観的に見つめることができます。

 
ある日曜日、いつものように
1週間を振り返っていたときのことです。

知り合いのかたが出演するコンサートに行った時の
感動を思い出し、「素晴らしい演奏だったな、
感動的だったな」としみじみ思っていたところ、
その瞬間、良心が
「あなたが歩んでいるみ旨の道は
もっと感動的だ」と語りかけてきたのです。

ああそうなのか……。
過去、映画や音楽、いろいろな素晴らしいものを
見たり聞いたりしてきたけれど、
「そのどれよりも、み旨はもっと感動的だ」
と言われた気がしました。

改めて思い起こすと、これまでもずっと、
感動的な出来事のたびに、
「み旨はもっと感動的だ」という
心の声を感じてきたように思います。

全て神様に導かれてきた道であり、
良心の声に導かれてきた道であると実感できました。

私の心の中にいる神様 146
み旨はもっと感動的だ
(blessed lifeより)


過去は変えることはできません。
しかし、心においては、過去に戻って、
振り返り、反省、改善することができます。

そういった意味では、一週間を振り返るというのは、
いいことだな、と思いました。

「み旨はもっと感動的だ」まさにその通りです。
困難な今この時こそ、「あの時を乗り越えて良かった」
と思えるように、希望と喜びをもって歩んでいきたいです。

そして、今この時にも
天は私たちを摂理しておられます。
例えば、伝道する時だけが
み旨ではないでしょう。

美しい音楽を聴く時にも、
それを見つめる神様を意識すれば、
み旨の一部となり、
さらに感動的なものとなると確信します。





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2022年11月19日

「神様、私の罪がわかりました!」スーパーで慟哭した証し 《蝶野部長*精誠篇2》B




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「神様は言葉ではなく、
実感を通し、罪を教えて下さる」

だから、心が痛ければ痛いほど、
それが神様のメッセージ。
心が痛くない人は、そのとき
それを蕩減する立場ではない──

蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」の続きです。


ですから、神様は、自分の罪を、私たちの罪を
言葉で教えないのです。

「神様、私が罪人だということを教えてください。
私はどんな悪いところがあるでしょうか」
と言ったら──

「お前はこんなところが悪い、
こんなことがある、こんな癖がある」
と機関銃のように言われたらですね、
もうなんか信仰生活いやになってくるんですね。

神様は教育のプロなので
祈ったら、実感で教えます。


あるご婦人は「罪がわからない」
といって半年間に祈り続けて、
「自分は人よりもいい人間だ。
罪人だっていうのは理解できない」
と言っておられました。

ところが、半年間祈って、
あるときスーパーに入ると、
食品売り場で、障害を持っている子供さんが
大根とか人参を振り回して暴れていました。

その息子を、お母さんが抱き締めて泣いてる
シーンを見たのです。

まさしくその息子は、
お母さんがなぜ泣いてるかわからない、
障害があるんだからしょうがないでしょう。

しかし、お母さんは、もう自分の力では
どうすることもできない、
そして恥ずかしいのもあるし、情けないのもあるし、
でもお母さんとしてできることは、
泣きながらその暴れる息子を抱きしめるしかない。。。

その時にそれを見たご婦人は、
あの暴れてる息子が自分だと思いました。

自分の罪がわからない、自分が何をやってるかわからない、
このことでお母さんがどれぐらい、
憐れみの愛と哀しみと恥ずかしさと複雑な心で
自分を抱きしめて泣いてるか分かっていない。

実はそのお母さん(の姿)が神様だったんだ、
ということで、そのスーパーで
もう慟哭して、「神様、自分の罪が分かりました」
と、こういう風な実話があります。


そうやって祈祷の答えを得たわけですよ。

私たちも祈祷の答えを、耳で聞こうとするのです。
言葉で聞こうとしますけれども、
言葉で教えられたものは流れていきますが、
実感を通して教えたほうが
その人のものになるのです。

神様は実感を通して教える。
ですからこの時にこの罪感をこの人が感じるためには、
このようなものとしてみるという条件が必要なんですよ。


この瞬間、悔い改める(【悔改)。

【神は私たちにの中にある罪を、
周りの人を通して見せてくれているのです。
周りの人はその役割を演じていると考えるべきなのです。】


と、これは、金元弼(ウォンピル)先生のみ言です。

「演じている」んですって、皆さん。
「えーそれ嘘でしょう」と思うかもしれません。

実際その人たちが、演じているわけではなく、
本気でやってます。
この目撃したいじめも(スーパーでの出来事も)、
(彼らは)演じているわけではありません。

だけど、私がなぜそれを見るのかという、
自分を中心人物の立場に置くと、どうでしょうか。

自分のために演じているという、
霊的な位置になるというのです。
ここなんです、皆さん。


そして、更に言うならば

【先生は他人を苦しめる人に対して、
原理がこうであるから
こうしてはいけないとは忠告されません。

こういった人の為にいかばかり神は
苦しまれたことだろうかとかと、
神の心情を慰められるのです】
と。

さらに段階を超えれば、見た瞬間に、
お父様は神様を慰めるというのです。

これ、【神様の立場を思う】
というのが、さらに上の段階です。


簡単に言いましょうか。
いじめをしているシーンを見たら、
神様を慰めるということです。

お父様は完成されているから
これが反射的にできる。

私たちはみ言で理解してできる。
やがては自然にできる。

だから20年30年の訓練で、人格を成長していく
というよりも、わずか数十日数カ月の
こういう生活によって激変していくわけです。

まるっきり変わってしまいます。
まず家族の見え方が変わります。
心が変わっているのです。

つまり神様を愛する。
人の罪を見て神様の立場を思いながら、
神様を愛する。

これを反射的にされておられるのが、
真のご父母様であられましたよ。

このことを通して
【人間に対する深い愛を持つ
神様の胸の痛みを知る】


痛いですよね、自分が一生懸命作った人間が
こんなことをしているんだから。
神様はどれだけ胸が痛いかと、
【神様の立場を思うのです、こうやって。

完成人間は、そうです。
私たちは、復帰原理を理解してできるというのです。
何回も言いますが、忘れなければ(できます)。
(しかし、)忘れちゃうんです。


で最後、
【蕩減を通して親子が
心情一体になってゆく摂理】
でもあるのです。

いじめを見せられたことで、
神様と私が一つになっていくということもあるのです。


だいたい蕩減というのは、
蕩減されればされるほど、どうなるかというと、
二つのものが一つになっていきます。

カイン・アベル、心と体、神様と人間、
二つのものが一つになっていく。

堕落というのは、一つのものが
二つになったことを堕落といいます。

蕩減復帰というのは、二つになったものを
一つにしていくことです。

ですから内面が蕩減されればされるほど、
心と体が一つなっていきます。
人間関係も一つになっていきます。


一つになっていくということは、
統一のことです。

家庭連合という看板が変わっても、
統一という言葉が残ったというのは、
これは原理のおおい(覆い?)だからです。

私たちの目指すところからだからなんですね。
キリスト教を統一するのではなくて、
家庭の統一であるし、
心と体、私の統一なのです。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


スーパーで慟哭した証し。。。
胸に突き刺さるようでした。

このような思いを持つことができれば、
物事に対する捉え方が、全く変わってきます。

これを文先生は、即座に感じることができる、
それは素晴らしいことですが、
私たちも忘れても思い出して
神様を思うように心掛けていけば、
変わっていくことができるということが
とても希望です。

おそらく、これを語られている、
蝶野部長ご自身も、
神様の立場に立って、物事を見つめる、
そのような心情圏に至っておられると思います。

決して自分の感情で物事を判断するのではなく、
これも自己牧会プログラムの取り組みのごとく、
良心を先立たせ実践していくことが
大事なのだと思うのです。



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