2022年11月18日

死んでから困らないために、霊界で必要な感性を磨く 「霊的五感」とは 《浅川先生☆天活のすゝめ》




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浅川先生「天活のすゝめ〜
天国への準備はできていますか」より
今回は、『愛を感じる人となる』です。

第五章 天国への愛磨き
愛を感じる人となる

私たちは毎日、朝昼晩、食べて生きています。

しかし、1日、食事をしなければ、
死ぬほど腹が空(す)くことがあるにしても、
死ぬわけではありません。
40日間の断食をしても、元気だった修行者もいます。

しかし、空気を吸わなければ瞬時にして死にます。
人は空気を呼吸し、その上で食事をして生きているのです。


では、霊界では、空気に相当する
霊人体(霊人の体・存在)の生命源は何でしょうか。

それが、「神様の愛」なのです。

文鮮明先生は、

「魚の世界では、水が空気と同じであり、
 人間の世界では、空気が私たちの生命を
 つないでくれる母体となるのと同じように、
 霊界の生命要素は愛です。
 愛が空気と同じなのです」


と語られています。

 
肉身(生きている体)では、空気を吸うのは鼻です。
では、霊人体はどうやって、
神の愛を呼吸するのでしょうか?

霊的五官で、神の愛を感じるのです。

このため、「天国」入国のためには、
霊的五官で、神の愛を感じる人に
ならなければなりません。


人生は母親の胎内時代から始まります。

その時、「羊水」に守られ、
生命源はへその緒で注がれる母親の栄養でした。
胎内生活では、目、耳、鼻、舌、皮膚の
肉的五官が育成されていたのです。


肉身生活では、胎内で五官を育てたように、
霊界生活のために、愛を吸収できる
霊的五官を育成するのです。

霊的五官により、自然や、家族や人間関係で、
神様の愛を感じるようにします。

水を飲めば体が潤い、食事をすれば体が満たされるように、
自然の営みを見て、鳥の声を聞いて、
草花の香りを嗅いで、神様の愛を感じるのです。

夫婦、家族、人間関係で、神様の愛を感じるのです。

目で神の愛を見て、耳で神の愛を聞き、
鼻で神の愛を嗅ぎ、舌で神の愛を味わいます。
日常生活で、神の愛を呼吸して生きるのです。


文鮮明先生は、

「天国に行って愛を吸収できる
 耳と目と鼻、霊的五官を準備して、
 死の峠を越える時に、それが開かれるのです。

 無限の世界で必要なのが霊的五官です」


と言われます。

天国への準備活動、天活≠ニは、
神様の愛を呼吸し、神の愛を吸収できる
霊的五官を磨くことです。

地上の営みのすべてに神様の愛を感得する生活、
それが天活≠ネのです。

浅川勇男・著
(光言社刊『“天活”のすすめ〜
天国への準備はできていますか』より)
第五章 天国への愛磨き
「愛を感じる人となる」
(blessed life)


「霊界での空気は愛である。
神の愛を呼吸して生きる」

なかなかピンと来ないな、
というのが正直なコメントです。

でも、肉体に必要な栄養素は、
水であり、食べ物であり、
さらに重要な物が光と空気です。

霊界においてもそれらはありますが、
すべてにおいて神様の愛を感じられなければ
豊かな栄養として取ることができないといいます。

神様は光のような存在であり、
神様の愛を空気のように呼吸するところが
天国だというのですが、神の愛を呼吸できなければ
苦しくてたまらないことでしょう。

天国は神様の愛と真理の光で満ちていて、
美しく豊かな自然万物であふれ、
まるで魔法のように、電子レンジよりも
自動販売機よりも早く、素晴らしい御馳走を
得ることができるといいます。

そのためには、やはり神様の愛を
受けるに必要な私にならなければならないし、
霊的五官を磨いていく必要があるでしょう。

日ごろから、み言と祈りで神様と
一つとなると共に、愛の実践、
感謝で人の為に生きること・・・
「天活」を常に意識して
生活していきたいと思うのです。





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2022年11月17日

興南から徒歩10日間、平壌に戻られた主をお迎えする 《金元弼先生》




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言
今回は、「平壌で先生をお迎えする」です。

 
先生は生き残ることができないような状況下で
牢屋から出られて、平壌まで400キロを歩いて帰るのに
10日間かかりました。

先生が出られた時には、お一人ではなく、
牢屋の中でお弟子になった方が、自分の家に帰らないで、
先生に生涯侍るということで、
そのまま平壌までついて来ました。

そういうことを見ても、先生をどのように理解していたか
知ることができると思います。
自分の家庭を持っている人なのに、
そして家が牢屋から近い所にあるのに、
その家に行かないで、そのまま先生についてきたのです。

 
平壌までの10日間の生活は、戦争の真っ最中でしたので、
共産軍は北の方に逃げ、UN(国連)軍が
追いかけてくるというものでした。

逃げ遅れた者は南の方に行き、
誰が誰やら分からないような時でした。

共産軍は全員頭を刈っているのですが、
先生御白身も牢屋に入っている時に頭を刈られていました。
ややもすれば、国連軍や韓国の国軍に会っても誤解されて、
何回も処刑されそうになったのですが、
乗り越えて生きて帰ることができました。

 
また、食べる物が全然ありませんでした。
冬の初めでしたから、山に行っても農家の人は
みんな避難して、食べ物も何もありません。

あるのは腐って凍ったジャガイモくらいなもので、
それを食べながら平壌まで何とか無事に帰って来ました。

 
一つ不思議なことがありました。

先生が訪ねようとされたのは、玉世賢という
霊能者の家ですが、そこに私が一緒にいました。
先生はその霊能者の家が分かっていたのです。

それで先生と一緒に来た弟子が玉さんの家に
送られてきたので、その人について先生の所に行くと、
そこには数多くの刑務所から出てきた人たちがいました。

先生はそこから四キロ離れたおばさんの所におられました。
私はそのお弟子に連れられて、先生がいらっしゃる所へ行って、
先生をお迎えして玉さんの家に戻りました。

 
その時、私は「どうして先生は、直接
玉さんの家に来られなかったのだろうか」と考えました。
皆さんはそういうことに対して、
何も不思議に思いませんか。

私たちが先生を本当に先生として信じて侍るならば、
戦争の時であっても、自分の生命よりも
先生の生命を考えて「先生はどうなったんだろう」
と案じながら、興南まで行って、
先生を迎えなければならなかったはずです。

皆様だったらどうでしょうか。
先生は牢屋の中におられますから、それを案じて
「いつ出られるか、無事に出られるか」
と思いつつ待って、先生をお迎えして、
平壌まで帰らなければいけなかったと思います。

ところが私たちは、そういうことが
全然分からずに家にいたのです。

先生が直接訪ねて来られなかったのは、
先生のおられる所まで訪ねて行って
先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだったと思います。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「平壌で先生をお迎えする」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだった」
なるほど、こんな摂理があったのですね。。。

中心人物として立つためには、
迎える条件が必要なのだな、と思いました。

条件をもって備えないと
立つことができないのではないか、と思います。

主の代身として立たれている方にも
お迎えする心情を持つことが大事なのだ、と感じます。




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2022年11月16日

迷える子羊が帰ってきたら、天がどれほど喜ばれるか 《柴沼先生*誌上説教》




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柴沼先生の誌上説教
今回は、「見捨てられる者は誰もいない
〜迷った一匹の羊」です。


イエス様は、パリサイ人や律法学者たちに対して、
羊飼いが飼っている100匹の羊のうち、
1匹の羊が行方知れずになったなら、
残りの99匹を置いてでも、
その1匹を捜しにいくだろうと問いかけ、
その羊が見つかったときの喜びと感動が
いかに大きいか伝えようとされました。

1匹の羊は、自ら、羊飼いの目が届かない所に
行ったのだろうと思われます。

そのように自己の位置を失った羊であったとしても、
羊飼いは愛情を注いでいるがゆえに、
必死になって捜し歩き、そして見つけたならば、
友人や隣人と共に喜びを分かち合うというのです。


ここで、羊飼いは神様、1匹の羊は
一人の罪人のことを表しています。

もし、罪人が自らの行いを悔い改め、
本来の位置、つまり神様のもとに帰るならば、
神様がどれほど喜ばれるかということを、
イエス様はお伝えになりたかったのです。


その時代において、人々は神様のことを、
天地を創造された、偉大で唯一なる方として捉え、
ユダヤ民族を選民として導かれた方だと
あがめていました。

そして、誤った道に行った人々、
すなわち、律法に反した人々や取税人、
あるいは病気を患った人々を罰し、
お見捨てになる方だと考えていたのです。


ところがイエス様は、世の中から
見捨てられたような者たちさえも、
神様は愛し、決してお見捨てにならないと
訴えられました。

神様のことを、創造主であり、ユダヤ民族を
選民として導かれた偉大な神〞としてではなく、
父母の愛で一人一人を包んでくださる
愛の神〞として証しされたのです。


私たちは、親によってこの世に誕生させてもらいました。
もちろん、そのことに感謝してはいますが、
それ以上に、私のために人生を捧げ、
愛を尽くして育ててくれたことに対して、
ありがたく思っているのではないでしょうか。

同じようにイエス様は、神様を
単なる創造主として証しするのではなく、
一人一人を愛して育む親なのだ
と教えようとされたのです。

柴沼邦彦・天一国特別巡回師(777双)
『世界家庭』8月号


このイエス様の言葉を聞いて、
マザーテレサの言葉を思い出しました。

「あなたも、私たちと同じように、望まれて
この世に生まれてきた大切な人なのですよ」

神様を愛し、イエス様を愛され、
イエス様が実践していかれたように、
自らも実践していかれました。

ですからマザーテレサの言葉には
力があります。
イエス様もまさにそうです。。。

私たちは、もう一度原点に返り
自分が救われたように、
救いを求めている人たちに
愛をもって、接していきたいと思います。



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