李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「結実時代」から、『神と私の関係を生命視』を紹介します。
☆
どんな仕事でも、人間は心情的にできるようになっています。
私に合うとか、合わないとかということはないのです。
自発的にやれば絶対にない。
なぜかというと、女性であれば、
みなお母さんにならなくてはならないのです。
お父さんとお母さんの使命は何かというと、
牧会者の使命なのです。
それは創造主の使命です。
ですから、何の仕事をやっても、
創造的に、自発的に、情にあふれて
暮らすようになっています。
もちろん、素質ということはありますが、
やればその面において、相当悟るべき、
あるいは心情を刺激すべきものがあるのです。
☆
先生は、労働しながら、「自分はこの世に、
牢屋に入って一等を取るために来た」と思い、
毎月、一等を取られた。
何千人もいるので、それは本当に力を入れて、
熱心にやらないと難しいのです。
ヨセフも、十七歳から三十歳までの十三年間、
異邦の国で仕事をしながら、とても褒められました。
☆
何を任せられても、自分の仕事のごとく、
自分がそのために生まれてきたように、
使命のごとくなす人は、本心で暮らす人です。
観念で暮らす人は、何を任せても、
自分の素質に合わないと言うのです。
ですから、統一教会に来た人は、
何をやらせても自分の素質に
ピッタリ合わなくてはならないのです。
☆
それから、敏感になって、言わなくても
相手をピンと知るような人間にならねばなりません。
勘が鋭くないといけない。
鈍い人はなぜ鈍いのかというと、
方向性や目的、価値観がはっきりしないため、
使命感が鈍いのです。
み旨に徹した人は敏感で、
人を透視する目をもっています。
愛の強さ、愛着心とか、
そのアンテナで人を知るようになっているのです。
そんなに敏感に分からなければ、対話の中で
知る方法を知っていればよいのです。
親子関係の因縁と、入教してのみ言の体験と、
アベル・カインの関係、これを知れば、
その人の癖や本性を知ることができます。
親に心配をかけたりする人か、
み言を聞いて動機をもって、
それをどれほどもち続けている人なのか。
何が原動力となって、今いる人なのか。
それを見れば、その人を知ることができます。
☆
価値基準をもつと、必ず、価値観を失う可能性、
崩れる可能性のある場面を通過するのです。
崩した人は、中心性が弱い人で、
環境に支配される人です。
相当苦痛の中を通過しながらも崩さなかった人、
信仰によって義を求めた人、
苦痛を通じて義をもち続けた人、
神と関係を結んでその関係を一度も崩したことがなく、
自分に関することで重んじなかったことのない人を、
義人というのです。
イエス様の十字架の精神がそれです。
死にながらも、神と自分との関係は、
他人に不信されながらも、それをもって
失わないことを示したのが十字架だったのです。
私たちは何を一番生命視すべきなのかといえば、
「私たちの生命とは、神のものである」ということです。
これ以上に価値あるものは地上にありません。
このこと、この因縁の価値、
それ以上に価値あるものはありません。
天宙をあげるといわれても、
その関係と交換できないのです。
今、こういう結実時代において、
自分は神のものなのです。
そして、本当に愛の心を高く、真剣に
アンテナをもてば、解決できないものはないのです。
16.結実時代
「神と私の関係を生命視」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「神と私の関係を生命視」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
文先生は、どんな環境、どんな困難の道でも、
神様の前に絶対的信仰をもって、歩み、勝利されました。
それがご自身の願わない道であっても、
神様が与えてくださったものとして、乗り越えていかれました。
私たちは、自分の願わない環境を与えられた時、
感謝して歩むことができるでしょうか。
神様が与えてくださったものとして、受け止めることができるでしょうか。
文先生のように、すべて神様の与えられたものとして、
真摯に受け止めることができるように、
今与えられた環境を乗り越えていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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