私たちが霊界に行くと、神様は必ず
誰にでも三つのことを尋ねるそうです。
一番目は、おまえは地上にいる間に、
神様をどれくらい愛してきたか?
二番目は、おまえは人間をどれくらい愛してきたか?
三番目は、おまえは万物をどれくらい愛してきたか?
史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理によるみ言の証」
今日は、上の2番目のお話、
『人は愛の対象であり、師である』です。
☆
(神様をどれくらい愛してきたかという質問の後は)
次に、地上で人をどれだけ愛して来たか
と言う問題について、
神様は尋ねられるそうです。
☆
お父様(文鮮明先生)は人にどのように接されたのか?
二通りの基本姿勢で接するとおっしゃいました。
一つ目は、お父様の前に現れた人は幼い子供から老人に至るまで、
優れていようが劣っていようが関係なく、
神様が送ってくださった人だと思われるのだそうです。
「だから、私はこの人に最善を尽くさなければならない。
この人をどのようにしたら、幸せにして、
喜ばせてあげられるか?」と考えられるそうです。
そのように考えてみると、自然とその方法がわかってきて、
尽くしてあげることができるようになるそうです。
私たちは、神様は全知全能な方だ、
全てをご存知で成される方だと言いますが、
このような全知全能と言う概念は、
愛でしか把握することができないそうです。
神様が、まさにそのような方なのだそうです。
☆
私たち人間が自分の子供をどうしたら
一番喜ばせることができるのかを考えると、
自然とその方法がわかって来るのと同じなのだそうです。
どうしなければならないか、
別に勉強する必要が無いとのことです。
その人にどうしてあげようかと、
夢中になって考えると自然にわかって来るそうです。
そして、それと共に能力も生まれるというのです。
私たち自身が全知全能であろうとするなら、
このような真の愛の主人にならなければなりません。
☆
次に二つ目として、お父様は、
「私がこの人から何か学ぶことがあるだろうか?」
と考えられるそうです。
その人は、神様が私に何か学ぶようにと
送ってくださったのだから、
何か一つでも学ぼうとする、謙遜な心で接しながら、
私には無い何かがあるだろうと考えると、
必ず学ぶことがあるそうです。
なぜかと言うと、人間は誰にでも神様の12の性相の中で、
それぞれ違う一つをもらって生まれて来たからだそうです。
それで、その人を師として侍るようになると、
お父様の心がとても嬉しいとのことです。
いつでも学校に初めて入った新入生のように、
新しいことを学ぶと言う刺激の中で、
毎時間、瞬間、一日一日を退屈せず、
生き生きと生きて行くことができるそうです。
☆
ですから、誰にでも学ぼうとする心、
良くしてあげようとする心があれば、
その人はこの上なく幸せな人だそうです。
この世で最も豊かな人は誰かと言うと、
人のために生きようとする人であり、
反対に最も可哀想な人は誰かと言うと、
いくらお金がたくさんあっても、
他の人をいかに利用しようかと考える人だそうです。
「その人は物質が自分の前に
山のように積まれていても満足できず、
一層の欲を出して生きるしかないので、
地獄でさ迷うのではないか?」と語られました。
ですから私たちは、地上で人をどれくらい愛して
生きたかと言う問題を深刻に悩まなければならないし、
お父様がいつも一人一人を大切に接するのを
学ばなければならないでしょう。
史吉子/ 著「原理によるみ言の証」
☆
人との出会いは、偶然ではなく、
神様の計らいの中で出会っている、ということ。
そのことを認識することにより、
神様から恩恵を受けることができます。
私たちは、自分の思いで、好き嫌いで
人を選択したりしてしまいますが、
神様がなぜこういう出会いを与えたのか、
求めることで、悟りを与えられると思います。
人との出会いに感謝していきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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