李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言、
「結実時代」の続き、
今回は、「み旨化され自分と国家を越えよ」です。
☆
(文)先生の「父母の日」のお話を、
きのう初めて聞きました。
その中に、
「人間は信仰路程において、
自分というものと、国家観念によって
サタンになる」という内容がありました。
神のみ旨の価値をもった者に国家観念が必要ですか。
日本人とか、韓国人とか、ドイツ人とか、
国家観念があってはいけないのです。
み旨の道を行く路程において、
知らずに自分を肯定する場合があります。
例えば、愛されると自分が肯定されるのです。
先生の前でずーっと幹部になると、
自分というものが、生きてくる。
自分がなくなってみ旨化しなくてはならない
自分であるのに、教会長はこの教会の責任をもって、
自分が出てくるのです。
自分的な観点で見る、こうなるのです。
☆
日本的な統一教会、日本的な神学、
これでは世界に通じないのです。
これは怨讐です。
先生は、それを今回、強調して話されました。
本当の愛の世界は国家を超越する。
本当の愛、あるいは神様の愛、
神の願いに密接になると、
自分がなくなるのは当然なのです。
素直に、純真に、心情をもって
成長しないといけないのです。
☆
日本人に七年間の期間を与え、
「韓国語を学びなさい」と言われています。
韓国人は、生まれながら学んだものを全部捨てて、
韓国語を新たに学んで、み旨の言葉、
「原理」の言葉と思って使わないと、復活ができない。
ですから、韓国人もみ旨のために外国語を学んで、
本当にその人のための復帰摂理において、
少なくとも三つの言語を完成しなくてはならない
と先生は言われています。
先生は、本当に心情から、私たちのために話されました。
それなのに、そのままにしておけば、
国家的な皮をむくことができません。
☆
宣教師たちが韓国に来て初めて学んだのは、
ヨハネ福音書の第三章十六節の言葉です。
その一節を学んで、学んだばかりなのに説教し始めた。
ゆっくり、ゆっくり、その一節を一時間も繰り返した。
ところが、全員が泣きながら聞いたのです。
たったその一節の言葉で。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、
この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである」。
理屈よりも何よりも、それを利用して、
自分の言いたい内容を言ったのです。
☆
心情の世界において言葉はあまりいらないのです。
いくつかの言葉で、心情のポイントを言えば、
対話できるようになっているのです。
たくさん知ることが、人間を心情的にするのではなく、
言葉をたくさん知ると、かえって偽善者になるのです。
少し知って、深いところで話せば、
自分も本当に素直な、心情的な人間になるのです。
それから、先ほど言った、み言を心情の糧として
自分の心情を刺激しながら暮らすと、
その次はカイン・アベル関係です。
16.結実時代
「み旨化され自分と国家を越えよ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「み旨化され自分と国家を越えよ」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
責任ある立場に立つ人ほど、
自分を無にして歩まなければならない、と思います。
また、聖書の一節のみ言を
一時間繰り返して訓読するだけで
説教が終わり、しかも泣きながら聞いた
という証しもありました。
神様の霊に満たされて、
神霊的に引きあがったのでしょう。
神様を理論的に知るのではなく、
心情的に神霊的に実感することが
何よりも重要であると思います。
人間は信仰路程において、
自分というものと、国家観念によって
サタンになる
自分というものと、国家観念によって
サタンになる
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)