2022年11月17日

興南から徒歩10日間、平壌に戻られた主をお迎えする 《金元弼先生》




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金元弼(ウォンピル)先生のみ言
今回は、「平壌で先生をお迎えする」です。

 
先生は生き残ることができないような状況下で
牢屋から出られて、平壌まで400キロを歩いて帰るのに
10日間かかりました。

先生が出られた時には、お一人ではなく、
牢屋の中でお弟子になった方が、自分の家に帰らないで、
先生に生涯侍るということで、
そのまま平壌までついて来ました。

そういうことを見ても、先生をどのように理解していたか
知ることができると思います。
自分の家庭を持っている人なのに、
そして家が牢屋から近い所にあるのに、
その家に行かないで、そのまま先生についてきたのです。

 
平壌までの10日間の生活は、戦争の真っ最中でしたので、
共産軍は北の方に逃げ、UN(国連)軍が
追いかけてくるというものでした。

逃げ遅れた者は南の方に行き、
誰が誰やら分からないような時でした。

共産軍は全員頭を刈っているのですが、
先生御白身も牢屋に入っている時に頭を刈られていました。
ややもすれば、国連軍や韓国の国軍に会っても誤解されて、
何回も処刑されそうになったのですが、
乗り越えて生きて帰ることができました。

 
また、食べる物が全然ありませんでした。
冬の初めでしたから、山に行っても農家の人は
みんな避難して、食べ物も何もありません。

あるのは腐って凍ったジャガイモくらいなもので、
それを食べながら平壌まで何とか無事に帰って来ました。

 
一つ不思議なことがありました。

先生が訪ねようとされたのは、玉世賢という
霊能者の家ですが、そこに私が一緒にいました。
先生はその霊能者の家が分かっていたのです。

それで先生と一緒に来た弟子が玉さんの家に
送られてきたので、その人について先生の所に行くと、
そこには数多くの刑務所から出てきた人たちがいました。

先生はそこから四キロ離れたおばさんの所におられました。
私はそのお弟子に連れられて、先生がいらっしゃる所へ行って、
先生をお迎えして玉さんの家に戻りました。

 
その時、私は「どうして先生は、直接
玉さんの家に来られなかったのだろうか」と考えました。
皆さんはそういうことに対して、
何も不思議に思いませんか。

私たちが先生を本当に先生として信じて侍るならば、
戦争の時であっても、自分の生命よりも
先生の生命を考えて「先生はどうなったんだろう」
と案じながら、興南まで行って、
先生を迎えなければならなかったはずです。

皆様だったらどうでしょうか。
先生は牢屋の中におられますから、それを案じて
「いつ出られるか、無事に出られるか」
と思いつつ待って、先生をお迎えして、
平壌まで帰らなければいけなかったと思います。

ところが私たちは、そういうことが
全然分からずに家にいたのです。

先生が直接訪ねて来られなかったのは、
先生のおられる所まで訪ねて行って
先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだったと思います。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「平壌で先生をお迎えする」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだった」
なるほど、こんな摂理があったのですね。。。

中心人物として立つためには、
迎える条件が必要なのだな、と思いました。

条件をもって備えないと
立つことができないのではないか、と思います。

主の代身として立たれている方にも
お迎えする心情を持つことが大事なのだ、と感じます。




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posted by ten1ko2 at 07:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする