金元弼(ウォンピル)先生のみ言
今回は、「平壌で先生をお迎えする」です。
☆
先生は生き残ることができないような状況下で
牢屋から出られて、平壌まで400キロを歩いて帰るのに
10日間かかりました。
先生が出られた時には、お一人ではなく、
牢屋の中でお弟子になった方が、自分の家に帰らないで、
先生に生涯侍るということで、
そのまま平壌までついて来ました。
そういうことを見ても、先生をどのように理解していたか
知ることができると思います。
自分の家庭を持っている人なのに、
そして家が牢屋から近い所にあるのに、
その家に行かないで、そのまま先生についてきたのです。
☆
平壌までの10日間の生活は、戦争の真っ最中でしたので、
共産軍は北の方に逃げ、UN(国連)軍が
追いかけてくるというものでした。
逃げ遅れた者は南の方に行き、
誰が誰やら分からないような時でした。
共産軍は全員頭を刈っているのですが、
先生御白身も牢屋に入っている時に頭を刈られていました。
ややもすれば、国連軍や韓国の国軍に会っても誤解されて、
何回も処刑されそうになったのですが、
乗り越えて生きて帰ることができました。
☆
また、食べる物が全然ありませんでした。
冬の初めでしたから、山に行っても農家の人は
みんな避難して、食べ物も何もありません。
あるのは腐って凍ったジャガイモくらいなもので、
それを食べながら平壌まで何とか無事に帰って来ました。
☆
一つ不思議なことがありました。
先生が訪ねようとされたのは、玉世賢という
霊能者の家ですが、そこに私が一緒にいました。
先生はその霊能者の家が分かっていたのです。
それで先生と一緒に来た弟子が玉さんの家に
送られてきたので、その人について先生の所に行くと、
そこには数多くの刑務所から出てきた人たちがいました。
先生はそこから四キロ離れたおばさんの所におられました。
私はそのお弟子に連れられて、先生がいらっしゃる所へ行って、
先生をお迎えして玉さんの家に戻りました。
☆
その時、私は「どうして先生は、直接
玉さんの家に来られなかったのだろうか」と考えました。
皆さんはそういうことに対して、
何も不思議に思いませんか。
私たちが先生を本当に先生として信じて侍るならば、
戦争の時であっても、自分の生命よりも
先生の生命を考えて「先生はどうなったんだろう」
と案じながら、興南まで行って、
先生を迎えなければならなかったはずです。
皆様だったらどうでしょうか。
先生は牢屋の中におられますから、それを案じて
「いつ出られるか、無事に出られるか」
と思いつつ待って、先生をお迎えして、
平壌まで帰らなければいけなかったと思います。
ところが私たちは、そういうことが
全然分からずに家にいたのです。
先生が直接訪ねて来られなかったのは、
先生のおられる所まで訪ねて行って
先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだったと思います。
平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「平壌で先生をお迎えする」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第六章 興南解放と釜山伝道
「平壌で先生をお迎えする」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
「先生を迎え入れたという立場に
私たちを立たせんがためだった」
なるほど、こんな摂理があったのですね。。。
中心人物として立つためには、
迎える条件が必要なのだな、と思いました。
条件をもって備えないと
立つことができないのではないか、と思います。
主の代身として立たれている方にも
お迎えする心情を持つことが大事なのだ、と感じます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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