2023年01月31日

「その人は、原理がよくわからなかったんだね」 《史吉子先生》




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史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理によるみ言の証」より
『自己否定の意義と秘訣 』続編です。


ある日、 お父様(文鮮明先生)に
「ある食口が熱心に活動していましたが、
教会を離れてしまいました」と報告すると
「そうか、その人は原理が
よくわからなかったんだね」とおっしゃいました。

なぜなら、原理が願うことは、
まさしく自己否定であるからです。

私たちが原理をよく知らなければならない理由が
何であるかというと、難しくてもやるべきことは
必ずやらなければならないためであるし、
それが神様に帰る道であるためです。

それで、私たちは原理を学んでいます。

それで原理を知れば、私たちは
不平不満を言うことができません。
私たちがやるべきことは、必ずやらなければなりません。

ひたすら全力を尽くして、やらなければなりません。


お父様は

「神様は私ができないことをしきりにさせたが、
 私はそのたびに、本当に死を覚悟して
 耐えながらここまで来た。

 私がどんなにたくさん泣いて、
 どんなにたくさん身悶えしたかわからない。

 楽に歩んで来たら、統一教会が
 こんなにも発展することはできなかった。
 神様がムチ打って押し出しながら、
 やれと言われるのでここまで来た」


と語られたこともありました。


お父様は監獄に行かれる時も、
運がいいとおっしゃるそうです。

普通の囚人たちは、監獄に行くと監房に入りたがらないので、
看守が背中を押してやっと入るのですが、
お父様は走るようにして行かれるそうです。

どこに行かれても、神様はいつも12名の弟子たちを
準備してくださるので、そこに行けば、
間違いなく誰かが待っているだろうと期待をして、
喜んで入られるのです。

「今回、神様が準備している人は誰だろうか」と言って、
懐かしい人に会いに行くようなワクワクする心情で、
飛び込むように行かれるそうです。

それは、お父様が蕩減法を知っているからです。
しかし、お父様も肉身を持った人間なのに、
どうして喜んでばかりいられたでしょうか。


お父様はエバが12才になる時から、 天使長が
エバを誘惑しようと狙っていたとおっしゃいました。

それで、二世、三世たちを
12才の時から原理教育をさせなさいとおっしゃり、
定期的に原理教育を行って います。


それゆえ、神様の救いの摂理は、
天の側とサタン側の愛の闘いなのです。

天使長は、不義の愛によってエバを誘惑しましたが、
私たちが 真の愛を実践するなら、
どうしてサタン世界にいる人たちにサタンを切り捨てさせて、
天の側に移ってくるようにすることができないでしょうか。

そのためには多くの精誠を尽くしてこそ、
彼らが天の側に来るのではありませんか。

草創期にお父様は、神様の真の愛、
すなわち犠牲奉仕をしながら、
為に生きる愛を実践してこられたので、
みんなが霊的に引かれたのです。

お父様に対しては女性たちだけではなく、
多くの男性たちも霊的に引かれて来ました。


私はみ旨の道を歩みながら、だんだんと
自分という概念を忘れてしまうようになりました。

ある日お父様は、「あなたは誰か」
と尋ねられた時、自分の名前までも
忘れてしまう人にならなければならないと語られました。

天の側に近い人はどんな人であり、
サタンの側に近い人はどんな人か。

サタン側に近いほど、自分がとても強く、
(ことごと)く自分を中心とする人です。

自分を捨てて生きるということは、何なのか。
神様と真の父母様の対象の立場に立つということを意味します。


お父様は、自分を忘れて生きる秘訣を教えてくださいました。

お父様は常に神様と真の父母様に待って、
一時も離れてはならないとおっしゃいました。

そして、いつも祈祷しなさいとおっしゃいました。
お父様は祈祷されるたびに、
常に三つの条件を立てて祈祷しなさいと語られました。


第一は、祈祷する時はまず、
神様に挨拶をすることです。

子女である私たちが神様に祈祷する時、
当然、最初に挨拶をしなければなりません。
すなわち、祈祷する前に「私は誰々です」
と具体的に挨拶しなさいというのです。

そして、父母様の家庭に侍る私たちは
カイン的子女であるために、父母様の家庭のために
切実に祈祷することが、まさしく挨拶であるそうです。

父母様のご家庭のために祈祷をすることは、
父母様のご家庭が勝利された天運に
私たちが便乗してついて行くことになるので、
父母様のご家庭のために、
切実に祈祷を捧げなければなりません。


第二は、報告をすることです。

「私はこのようにしています」と言って、
日課の中であったいいこと、 悪いことを
いつも報告しなければならないのです。


第三は、神様に尋ねることです。

「神様、この問題はどうしましょうか」
と常にお伺いするのです。

私もこのような方法で暮しています。
いつも報告し、お伺いします。

また、お父様は神様に尋ねた後、
神様の答えを待ちなさいと語られました。

史吉子/ 著
「原理によるみ言の証」


この道は、自己否定の道である。。。
まさにそうだな、と思います。

今も、日々自分の足りなさを感じますが、
私の器を見ると、
「この道に来なければ、絶対にこのようなことはしなかった」
という訓練を受けてきたように思います。

お父様ご自身も
神様に訓練されてこられたのだということですから、
自己否定される、ということは、
神様に愛されていることなんだと思います。

真の父母様が犠牲の道をいくことが
できたのは、常に祈られながら
神様と一つになっておられるから。

神様と通じるがゆえに
力を得ながら越えてこられたのでしょう。

私たちも、もっと原理を知り、
神様を知っていきたいですね。

真のお父様が教えてくださった祈祷、
神様に挨拶し、報告し、尋ね、
さらに神様の答えを聞きながら
感謝して過ごしていきたいと思うのです。





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2023年01月30日

感情を抑え、フタをしてきた私が知った事実、良心はいつも叫んでいる! 《自己牧会プログラム》




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良心は
第二の神様です




自己牧会プログラムの体験談、
「良心はいつも叫んでいる」を紹介します。


(女性 30代)

私はずっと、自分の心を主管するというのは、
自分の心にフタをすることだと思っていました。

湧いてくる自分の感情を抑えて
コントロールするのが
当たり前だと思っていたのです。

その結果、私は素直な喜怒哀楽を
表現しなくなりました。

良かれと思ってそうしているので、
本当はそれで苦しんでいたということも
分かっていませんでした。

ですから、自分の気を紛らわすことに一生懸命で、
「とにかく動く」ということで生きてきたように思うのです。

このように、自分の心に
しっかり向き合うことをしてこなかったので、
私は自己観察、内省が苦手でした。


そんな私が自己牧会プログラムに出合い、
「自覚を取り戻す」ということを学びました。

心に浮かぶ思いを一つ一つ実況中継して
客観視していくようになってから、
だいぶ楽になったと思います。

自分の心と向き合う時は苦しい、
面倒だと感じることもありますが、
その先には良心との出合いが待っています。

行動で気を紛らわせるよりも、
良心と対話する方がすっきりすることが
分かってからは、心と向き合うのが
嫌でなくなりました。


良心と対話する中で、
「良心はいつも叫んでいる」
ということが分かりました。

私の幸福のためにずっと呼びかけてくれていた
「第二の神様」がこんなに近くにいたのに、
それを無視し続けていたと知り、
愕然(がくぜん)とするような、
申し訳ないような、ありがたいような気持ちです。


このようなプロセスを通して、
自分の気持ちをきちんと整理していかないと、
本当は一歩も前に進めないんだなと、
ようやく分かりました。

これまでの、進めば進むほど
心が重くなる歩みから、大きく転換できました。

何かあれば実況中継、自己観察、
自覚を取り戻して、光を送って…
という習慣が身に付き、
心が少しずつ成長していくのを感じています。

私の心の中にいる神様 158
良心はいつも叫んでいる
(blessed lifeより)


感情を無理に抑えても、心を
主管(コントロール)することにはならない。
心が解放されなければなりませんね。

逆に、自分が感情に支配されるとき、
客観的に物事を見つめることができない、と感じます。

感情にコントロールされると、
周りがわからなくなります。

納得がいかなくなると
その思いに支配され、
解決するまで、感情に押し流されます。

この証しの方とは、逆ですが、
しかし、決して良くないパターンだと思います。

感情を抑える、感情に流される、
どちらも、本当の意味で
私たちが求める姿ではないでしょう。

自分を冷静に見つめるためにも、
しっかりと「第二の神様」である、良心に心を向け、
自分自身の本当の心を取り戻す、
そんな時間が、誰にも必要であると思うのです。




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2023年01月29日

痛い時は、もっと痛く、嬉しい時は、最高に嬉しい メシヤの感覚は、天宙的 《金元弼先生》




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メシヤを少し喜ばせたら、
それは天宙的な喜びを
与えたことになるのです



金元弼(ウォンピル)先生のみ言、続編です。

メシヤに侍るということ

避難の路程の時には、先生と距離をおいた心は全然なくなりました。
先生と一緒にいるような生活に変わったからです。
朝起きる時から、何事も一緒にするようになったのでした。

私は一緒に歩きながら、自分の信仰を次のように打ち明けたことがあります。

「もし、2000年前に生まれたならば、
私はイエス様を飢え死にさせたでしょう」と。
メシヤは、食べなくてもひもじさが分からないお方である、
と信じていたからです。

私のような者ばかりがいて、食べる物も飲む物も
何も差し上げないならば、どうなりますか。

先生も私たちと同じく、ひもじい時にはひもじさを感じ、
暑い時には暑さを、寒い時には寒さを感じるお方であるとはっきり分かったのです。
私は先生を通じて、2000年前のイエス様の事情、心情を理解できました。

同時に、私たちがもう一つ分からなければいけないことは、
メシヤの立場から見ると私たちよりもっともっと敏感だということです。
私たちより、何倍もひもじさを感じる方だということです。

なぜでしょうか。


それはちょうど親と子のことを考えてみれば、もっとはっきりします。
母と子が二人で住んでいたとしましょう。
とても貧しい家庭です。

子供は幼いので、母親が稼いで子供に食べさせなければいけません。
何とかしてやっと稼いで、牛乳を買いました。
ひもじいからといって、親が先に飲むことはできません。
まず子供に飲ませます。
残した物があれば、その次に母親が飲みます。

子供がひもじいと言うのと、親がひもじいと言うのとは、
同じ言葉ですが、内容は違うのです。

子供は自分のひもじさばかり考えて、ひもじいと言います。
しかし母親は、子供に食べ物があって、
自分にない時は、ひもじいとは言わないのです。
母親がひもじいという時は、子供のひもじさと
自分のひもじさが合わさって含まれているということを忘れてはいけません。


このことを通じて、はっきりしておきたいことは、
子供がひもじい、親がひもじい、その次に国を治める人がひもじい、
世界を治める人がひもじいという時、ひもじいという言葉は同じですが、
ひもじさを感じる度合いは、次元が全然違うということです。

個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙
というふうにレベルが変わってくると、
喜びも個人的喜び、家庭的、民族的、世界的、天宙的喜び
というふうに違ってくるということです。

ですから、国を心配する人を悩ませたならば、
それは国家を悩ませたことになります。


死にかかっている人を救ってあげたというのと、
国を治める責任をもっている人が死にかかっているところを助けたのとは、
同じように一人の人間ですけれども、その内容は違うのです。

一人の人を救ってあげますと、その家では、
「自分の子を救ってくれた」と言って、いろいろなご褒美を与えるでしょう。

ところが、ある人を救ってみたら、それが王子様だった場合、
王様は「私の子を助けた者は誰だろう」と探し回って、
その人を見付けたら、どういうご褒美を与えるでしょうか。
「お前は私の宮殿で一緒に暮らそう」ということになるのです。

反対に、王子様を殺したら、その人はどういう罰を受けるでしょうか。
個人を殺した場合は、個人の罰を受けるでしょう。
しかし、王子様を殺してしまったならば、国家的な罰を受けるのです。
王子様が死んだ時、王様はどれくらいの痛みを受けるかといえば、
国家的な寂しさを感じるのです。


メシヤはどういうお方ですか。

メシヤを少し喜ばせたら、それは天宙的な喜びを与えたことになるのです。
もし反対のことが起こったらどうでしょうか。
イスラエル民族は、たった一人のイエス様を殺害したのですけれども、
その罰がどんなに大きかったか考えてみてください。

ですから、メシヤに侍るということは、
どれほど注意深くしなければいけないかが理解できます。

ところが、神は愛なるがゆえに、罰は二、三代で終わるようにし、
いいことは何千代にも及ぶようになさいます。


リーダーとメンバーのことを考えてみてください。
私自身がほかのメンバーに心配かけたとしましょう。
またリーダーである皆様を悩ませたとしましょう。
心配をかけたのは同じですが、内容が違います。

十名のメンバーを担当した皆様は、十の悩みを担っています。
私がリーダー一人を心配させたことは、十の悩みを与えたのと同じです。
100名のリーダーならば、100名分の悩みを与えたことになるのです。

ですから、自分のアベルに当たるポジションの人に対しては、
訴えるな、批判するなと教えたのです。
それはたくさんのメンバーの悩みを抱えている人であるからです。
十人のリーダーであるならば、十人の悩みに責任をもっている人なのです。

全人類の悩みを率いているメシヤの心を少し痛めたら、大変なことになります。
その代わり、少しの慰めを与えるならば、
大変な喜びをもって私たちを迎えるでしょう。


ですから、メシヤは私たちの感情よりも、
はるかに敏感であるということを分かってほしいのです。

たまたまメンバーが少し良いことをしたら、
先生は大げさに話してあげることがあります。
褒められた人は、「私はそんなによくできなかったのに、
先生はとてもよく見てくださいますね」と感ずるのです。

一人でいる時には大きな悩みであっても、先生のところに行くと、
小さく見えるのはなぜでしょうか。
それは、私にはとても大きく見えることも、
先生があまりにも大きいがゆえに、小さく見えてしまうと考えるのです。

皆様にもそういう経験がありますか。
とても心配して、リーダーに何か聞こうとしたら、
小さく感じて聞く必要がなかったことが。
皆様がどんどん成長していくと、メンバーが皆様に対してそう感じるのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「メシヤに侍るということ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題



本当に元弼先生のおっしゃる通り、
人を喜ばせる、ということは貴いことですけれど、
真の父母様に喜んでいただく、ということは、
どれほどの価値のあることか知れません。

真の父母様は、私たちが幸せにならない限り、
ご自身も喜び、幸せを感じることができないお方である、
そのことを改めて感じました。

孝情の心情を持って、
神様・父母様に喜んでいただく歩みをすること、
今がその最頂点にいることを思いつつ、
さらに精誠を捧げていきたいと思うのです。




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